2020年12月31日木曜日

2020年を振り返る

 今年もいよいよあと数時間で終ります。私も改めて今年を振り返りたいなと思います。

今年は私の転機となりました。

2月に個人事業主になったこと、その後4月にコロナにおける緊急事態宣言に伴い某データ入力の仕事を雇止めされ、改めて生活保護さらに障害年金を申請し、受理されたこと、それとともに、ここ20年近くで久しぶりと言っていいほどに、いわゆる雇用関係における労働を全くしない状況になったことなど、いくつかの転機がありました。

さて、そのような中で唯一仕事があったのが、ものを書く仕事。あるいは誰かの前で話す仕事でした。

自分は今まで「ものを書く(雇用関係にある)労働者」であり、かつそのようなアイデンティティを持っていたのですが、自分はもっと何かを書く必然性があるのではないか、と考えるようになりました。

さらには、雇用関係の労働がなくなり「障害者」となり、自分の「うつ」にちゃんと向き合う必然性も生まれました。

自分は今まで夜型かと思っていたら、実は朝方で、ものを書くために夜遅く寝ることになっていたために睡眠障害が起きていたことに気が付きました。

そして肥満、脂肪肝、コレステロールの増加といったうつに伴って現れる身体的な問題を解決する必要を感じました。

食事療法や(社会運動の方ではない)運動をはじめ、さらには自分が今まで無理して(社会運動をするなら)「広げるべき」と考えていた人間関係を縮小し、そして何より今までは「やれる」と思っていたことを控えるといった、具体的に生活スタイルを変える年となりました。

 私は今までどこか、それこそケアワーカーをしながら労組を作るというような生き方に憧れてました。でも私にはそれは無理だということが改めてわかりました。

私は来年の目標として、まず書くことをきちんとやっていこう、と思っています。そして本を読むこと、あと社労士の資格を取ること。より労働についてちゃんとしたものを書くために必要と感じたからです。

 あとはもう少し「健康」になることでしょうか。でもそれは「健常者」になるという意味ではありません。むしろ今までやれたけど「できなくなった」ことを許し、自分なりの生活を送っていくことを「健康」と言いたいと思います。

 コロナに限らず、風邪、インフルエンザ、精神疾患、生活習慣病、悪性腫瘍等々世の中にはさまざまな病気があります。何卒皆さまご無事で、新しい年をお迎えください。

2020年12月25日金曜日

福音と世界2021年1月号

 福音と世界2021年1月号 | 

生きる・はたらく事務所 https://ikiruhataraku.booth.pm/items/2627933 #booth_pm  

上記からの通販のお知らせ大変遅くなり失礼いたしました。

今回の連載「I Say a Little Prayer 開かれる世界10」は、「友達」というタイトルで書いております。ご覧いただけたら幸いです。匿名で購入できます。

2020年12月24日木曜日

Happy Holiday and Merry Christmas!

 ディック・ブルーナ作 ふなざきやすこ訳 『クリスマスって なあに』より


『はらっぱ 子どもの人権・反差別・平和を考える』寄稿しました

こちら『はらっぱ 子どもの人権・反差別・平和を考える』に"怖くてクソどうでもいい仕事/人を育て支える仕事"を寄稿しております。よろしかったらお読みください!



最近しみじみわかったこと。

 「鬱になったら賃労働はやめましょう」

いや、今雇用関係の仕事につかないで半年以上になるんですけど、元気になるというか

「疲労が重ならないで、元気な要素が貯金のように積立されている」って体感してます(銀行の例えがこれから続いてしまってあまりいい例えとは思えないのですが)。

いや、毎日フルタイムの仕事とかじゃなくても、鬱になると疲労回復のターンが長ーくなるので、疲労が取れないのだ。なので、鬱になったらちょっと元気になっても、元気の積立が満額いたるまではまだまだ仕事を休まないといけないし、大袈裟な言い方すれば、鬱になったらもう「あんまり向いてない仕事」は(たとえそれが素晴らしい仕事でやるべきとか思ってても)放棄しないと生きてけないということ。だから、もっと「賃労働じゃなくても生きていける」方法とか、そこでの時間の過ごし方とかを考えていくことがひいては鬱になっても生きていける方法だと改めて肌身で分かりました。


2020年12月22日火曜日

『女性学年報』41号の中の遠山日出也さんの「日本の左派とフェミニストの中にある新自由主義認識の問題点——家族賃金・能力主義・個人単位化などの概念の多義性と資本主義認識を中心に」を読んで

 『女性学年報』41号の中の遠山日出也さんの「日本の左派とフェミニストの中にある新自由主義認識の問題点——家族賃金・能力主義・個人単位化などの概念の多義性と資本主義認識を中心に」論文、必読です!

https://www.jstage.jst.go.jp/.../41/0/41_23/_pdf/-char/ja

多くの人に読んでほしいと思います。ちなみに(fbでは「友人」でもある)落合恵美子さんの『21世紀家族へ第4版 家族の戦後体制の見方・超えかた』が引用され、その中に私が登場する部分があり、そこを遠山さんが用いながら論を展開されている部分があります。

私は『21世紀家族〜』を謹呈いただいていましたし、ここの箇所も読んでいたのですが、遠山さんの論に触発され、また本を謹呈されてからさらに確信を持った部分を含めて、改めて私自身もこの部分について触れたいと思います。ちなみに遠山さんが落合さんと私について書かれていることは下記となります。

「落合は、自らも関わった 2010 年のあるシンポジウムが、栗田隆子ら貧困運動関係の活動家に抗議されたことについて述べた際、女性に関する政策実現のためにはフェミニスト官僚、シ?ェンダー研究者、 女性運動家、政治家などの異なった立場の女性たちが連携することが必要なのに、「『エリート女性』に 対する冷ややかな目」がそれを妨げていると批判している。その際、落合は、かつて「『雇用平等法反 対』という運動」があったが、「今にして考えると反対なんてとんでもなかった」と言う。なぜなら、 反対した女性たちは、均等法は「労働基準法の女性保護撤廃とセット」だから「労働者の権利を犠牲に して、エリート女性に都合のよい法律を作ろうとしている」と批判したが、均等法は「現在から見れ ば、すべての働く女性にとって(......)無ければ困る法律だった」からだと述べる[落合 2019:293-294]。 しかし、まず、当時の女性運動のほとんどは雇用平等法の制定を要求しており、反対したのは、あくま でも「保護抜き平等」や「骨抜き『平等法』」に対してだった。たしかに落合が述べたような理由から 雇用平等法に反対した運動もあり(「主婦戦線」など)、私もそうした運動は一面的だったと思うが、それらの運動についても、女性間の階層差の認識などの点で当時の女性運動の弱点を突いていた面を主張する研究もあり[村上 2012]、そうした点についての検討は必要だろう。また、現在でも、非正規雇用の女性など、均等法の恩恵をほとんど受けていない「働く女性」も少なくない。実践的にも、落合の 議論では、階層間の連携について、非エリート女性やマイノリティ女性からエリート女性へという方向が強調されすぎるように思う。」 

上記に関連する落合さんの『21世紀家族』で箇所は下記のようになります。

「女性に関する政策を実現するには『ビロードの三角形』もしくは『ビロードの四角形』が働くことが重要だといわれます。フェミニスト官僚。。ジェンダー研究者、女性運動家、それに政治家が連携して法改正などに成功するケースが多いというヨーロッパやアメリカの経験から生まれた言葉だそうです。別にこの三者ないし四者に限らず、企業の人たち、メディア関係者などの役割も重要ですし、男性が入ってもいいと思いますが、異なる視点や権限を持った異分野の人たちが連携するのは大きなことをするために重要です。日本ではこの連携が下手なのが問題ではないかと私は思っています。「エリート女性」に対する冷ややかな目がこれと関係していると思います』という部分です。

そしてその前のいくつかのパラグラフでは私がパネリストとして参加した2010年の日本学術会議社会学委員会ジェンダー研究分科会主催の「ジェンダーから展望する新しい社会の仕組み—女性の貧困・雇用・年金」で私がパフォーマンスと意見を述べたことについて記載されています。こちらは社会運動界隈でも賛否を招いたのですが、この出来事は、拙著「ぼそぼそ声のフェミニズム」にも書かれてあり、このイベントをめぐってパネリストと主催者側の意見が2冊合わせて読めばよりわかりやすくなるかと思います。

さて落合さんは私の発した意見の中で

「家族や資本や国家に包摂されたくない」ということ、また「自分たちはなってはいけない存在なのか」という問題提起が突き刺さったとあります。そしてその私からの問題提起を受けながら、前述したような(学者への批判は受け入れる必要があると考えつつも)「エリートへ女性に対する冷ややかな目線」は女性の連携を妨げるものと書かれています。

さて、しかし「エリートへ女性に対する(エリートじゃない女性の)冷ややかな目線」は女性の連携を妨げるものなのかは少々考えたいところです。

まず一つは、それであればブラック・フェミニズムやその他「異性愛白人中産階級女性」が中心であったフェミニズムの批判という歴史をどう受け止めているのか、という話をせざるを得なくなるでしょう。「異なる視点や権限を持った異分野の人たち」の中に階級が異なり、あるいはセクシュアリティが異なり、あるいは人種が異なり、という点はどこまで考慮されているのでしょうか?あるいは「異なる視点や権限を持った異分野の人たち」が対等に話し合いができるためには、「批判」というプロセスが飛ばされたとは思えません。それはオードリー・ロードやベル・フックスやそのほかを読めば明らかだと思います。

また、社会運動の中で「インターセクショナリティ」という概念が注目を受け続けています。差別というものは単独のイシューとして現れるのではなく、黒人女性である、外国にルーツを持つ女性、部落の女性、そのほか複数の立場、属性、位相の中でこそ差別はより鮮烈に引き裂かれるものとして現れることに焦点が当たっています(逆に利点が重なることでエリート性が強化されもします)。もちろんそれはかつてからあったことですが、いま新自由主義の社会においては、その交差性の中でこそより差別は鮮烈になされていると言えるでしょう。そのことに異議申し立てたことに「エリート女性への冷ややかな視線」と書くのは少々現状の差別問題への視点が平板ではないかと思われます。

また、それこそ今年の11月に「99%のためのフェミニズム宣言」という本が邦訳されましたが、こちらはエリート女性への冷ややかな視線どころではなく、シェリル・サンドバーグの「リーン・イン」への痛烈な批判から始まります。

男性並みの平等、エリートの立場に「リーン・イン(前のめり)」になることがフェミニズムなのか?男性の権力、人殺しをする平等に女が加わりたいのか、という「リーン・イン」的は発想への痛烈な批判です。アメリカの能力主義と日本の能力主義はまた違いがあるので、この本を日本に簡単に落とし込めるかどうかという問題はありますが、少なくともここで語られる「アメリカやヨーロッパ」は落合さんの語られる「アメリカやヨーロッパ」とは随分異なるものだ、といわざるを得ません。またリーン・インを痛烈に批判している人が、ナンシー・フレイザーという「エリート」の「学者」であるという事実をこの『ビロードの三角形』もしくは『ビロードの四角形』を主張する人々はどのように捉えているのか、非常に気になります。

私自身は、ちなみにじゃあ日本のフェミニズムはじめ社会運動がなぜ連携が下手なのかを考えるに「運動の中の<リーダー>学者の中の<より権限を握っている人>が話を聞かず、あるいは理解できず、自分の都合の良いように動く<駒>を無意識で求めている」といった人間関係により、さまざまな「ハラスメント」が横行していること、これがフェミニズムを含めた日本の運動が停滞している大きな要因の一つであると私は考えています。最近社会運動の中の性暴力やハラスメントの問題を被害を受けた立場の人が告発をし、ようやく「隠されていた」ことが表面に現れました(私は無理に当事者に告発をけしかけたくはありませんが)。また、社会運動団体と一口に言いましたが、ジャンルや考え方さえ違う団体でも、ハラスメントは多発しています。カトリック教会の「聖職者」による性暴力・性虐待が話題になっていますが、カトリック教会のような「保守」でも労働運動などの「左翼」でもそして「フェミニズム」でも同様に起きているこのことこそ「社会的構造」が生み出したものと考えるのが妥当ではないでしょうか。

そこには能力主義(何を能力と見做すかを含め)や競争をしいられること、世間の評判を上げなければ存続できない等々、ハラスメントを起こす背景を考える必要があるでしょう。そしてそこにもまた新自由主義や資本主義の問題に接続していく「根」がある、と改めて述べていきたいと考えています。


2020年12月6日日曜日

#殺すな 殺害されたホームレス女性を追悼し、暴力と排除に抗議するデモ(12/6)に寄せて

 本日12月6日の下記のデモ、本当は代々木に行って、声をあげたかった。殺すなと言いたかった。それだけ私には感じるところ、思うところのある事件でした。

殺害されたホームレス女性を追悼し、暴力と排除に抗議するデモ(12/6)

しかし諸事情によりどうしても参加が叶わず、デモに参加できない代わりにこのような文章をしたためることにいたしました。

渋谷区幡ヶ谷のバス停で(バスの乗り降りがない時間だけ座っていたという)ホームレスの女性が殺害されたというこの事件は正直、ホームレス状態ではない女性たちにおいても「他人事ではない」という危機感を募らせていると私は感じています。SNSでも「他人事ではない」「自分でもおかしくない」という意見が散見されました。

私もその一人と言えるでしょう。コロナで4月に雇い止めにあい、生保を受け、その後(以前からすでに治療は受けていた)うつ病のために障害年金を申請したところ受理されました。現在、障害年金と原稿と講座の仕事で暮らしている私。しかしこれがもし住居もなく(今は知人の厚意で貸してくださっている家に住んでいます)、家族もなく、住む場所もなく、バス停のベンチで寝起きを余儀なくされていたとしたら。それは私にとっては「違う世界」の話では全くないのです。あの殺されたMさんは10数年後の私の姿かもしれない。

殺害者はゴミ拾いのボランティアをしていたと報じられました。身寄りがなく、貧しくて、住む家もない女性は彼にとっては「ゴミ」に見えたのでしょうか。このような事件が起きるとゴミ拾い(拾った後「始末」される)という言葉がひどく暴力的なものに思えます。事実ホームレス状態の人を宮下公園から排除することに嬉々としていた渋谷区ではゴミ拾いのボランティアが盛んだそうです。さらに1964年の東京オリンピックでもゴミ拾いが盛んに行われており、またオリンピックのために路上で生活していた人を追い出していたと、先日友人から知りました。ゴミは本当に無駄なのか。ゴミって何なのか。ゴミだから悪いのか。

LGBTQの人たちのことを「生産性がない」と言い放った政治家もおりますが、産まず、貧しく、身寄りもない女性はをゴミと考え、ゴミはとにかく悪いものとみなし、生産性がないと突き放せる、そんな価値観に囲まれながら今の私たちは生きている。その現実がよくわかる事件でした。

しかし、ホームレス状態の女性で殺されたのはこの幡ヶ谷の女性だけではありません。

2020年に限った話でも3月30日、上野公園で70代のホームレス状態の女性が殺されました。この報道を読む限り、殺害容疑の作業員の60代男性は「逃走の恐れがないため」逮捕しなかったという異例の事件でした。

「上野でホームレス女性殺害容疑 60代の男を書類送検」

また3月25日に起きた朝日大学に当時在籍していた男性5人によるホームレス男性の殺害されましたが、彼らはホームレスの女性にも常日頃石を投げていました。しかもこの事件は、殺人事件が起きる以前に、殺害された男性が警察に何度も相談をしているにもかかわらず起きた事件なのです。

最後に渋谷のデモに参加できたなら持っていこうと思っていたプラカードの画像を挿入し、Twitterデモで呟くハッシュタグを載せます。


#ゴミってなんだ

#ベンチに座らせろ

#渋谷区ホームレス女性殺害に抗議する

#野宿者に対する排除と暴力を許さない

#殺すな #殺すな #殺すな









2020年11月30日月曜日

「パートで働きたくなる誘惑」

 「パートで働きたくなる誘惑」っていうのが最近の私にはあるのに気がついた。

30代の頃は求人誌見るのも嫌だったのにいつの間にか派遣求人サイトやパート求人サイトを見ている私・・・でも、今またパートで働くと鬱も悪化する危険もあるし、鬱の悪化によって本を書けなくなる恐れもある。そもそもコロナで求人も少ない。そして何よりもう派遣の仕事はいつクビを切られるかわからず、50近い私において雇われる可能性もほぼ、ない。それこそ今は、障害年金でお金もなんとかなっていて、イベントの企画もあって、ぜひ本を書いてください!と言われてもいるのにこの誘惑は一体なんだ?と思うと、一つは労働の「現場感」が薄れるのではないか、という怖さ。でもそれは根深くなくてもう一つは、パート労働せず本を書く、ものを語るということで、「労働の現場にいる」という自分の中の言い訳が通用しないことが怖いのだ。もう20年近くダラダラとパート労働や派遣労働をやって(そして鬱になって続けられなくなったり、クビになったりしながら)、もういいだろう、次の段階にいっても良いだろうと思うのに、奇妙にそれが怖いという矛盾!昔は働くのが怖かったが、今はいわば「パートという足場なくして、ただ言葉一本で勝負することの怖さ」というべきか。でもおそらく今の私にはパート労働しながらではできないことを書こうともしているので(調査しないといけないことも多い)、この「パートしたい誘惑」を避けないといけない。こうやって書くとこの誘惑、実に取るに足らない感がある。本当に人間思いもよらないことが自分の外側にも自分の内側にも起こるものだ。


2020年11月15日日曜日

千葉県・佐倉市にある「国立歴史民族博物館」に行ってきました

 昨日11月14日に、知り合いのAさんとともに国立歴史民俗博物館に行きました。

「私と行くと無料だよ」と誘ったのですが、本当に「連れ添い」的な状態に。そもそも東京駅から一日一回しか出ないバス乗り場がわからなかったり、「性差(ジェンダー)の日本史」展に入るには予約のメールのチェックがあるのですが、メールが一瞬見つからず(検索したら出てきた)など、いくつか焦るシーンはありましたが、ともかくも無事に見学できました。


さて。感想ですが。

(1)「性差の日本史」展は「え?そこで終わり」感はある。だけど図録が凄いので、ぜひ図録は入手!

(2)あと、「性差の日本史」展会場は一回入って出口を出てしまうと、もう一度会場に入ることができないので、とにかく一回でじっくり見るように!

(3)常設展がいい!

の3点です。

(1)については、女性の主に社会参画というか労働の話というか、「ジェンダー」となると広いからどうまとめるかというのは難しいかな、という印象があります。

またいわゆる性労働・生産業については。「遊女」(中世くらいまで):〜「遊郭」(江戸時代まで)」〜「国営管理(赤線・青線等)制度」(明治から戦後)と言った流れは掴めるのですが、植民地に絡むところとかは(いわゆる「慰安婦」と呼ばれた人たちのこと)はあまり触れていません。あと、現代の「風俗業」と呼ばれる性産業・性労働については触れられていません。「金銭を介して性サービスを提供」ということはずっと古くからあったと思うのですが、やっぱり時代においてかなり背景や制度は違うという事実を踏まえるのは大事なことかと思います・・・。

(2)これは一回さーっと見てもう一回じっくり見たい!という方は何卒ご注意!あと結構土日は混んでいるので、できうれば平日がいいのかもしれないです・・・。

(3)あと本日強調したいのはここ!日本史に精通している方なら良いのかもしれませんが、日本史あんまり詳しくないんだよーという方はこの常設展をじっくり見ればかなり日本史が鮮明になるのでは、と思います。

私はたまたま「性差の日本史」会場に近い「現代(1930年代〜)」の展示場に入ったら、これが素晴らしくて。国防婦人会が実際使ってたタスキとか!植民地にしていたサイパンで使っていた日本語の教科書とか!しっかり日本による植民地支配時代も展示されています。

ちなみにこの展示場はこの日は空いてたのですが、父子(子は10歳未満くらい)と思しき二人が私の近くで会話をしていたのですが

「外国とは戦争をするものなんだよね?」(子ども)

「いや、外国だからって戦争する必要はないよ」(父)

「えー。外国の人と仲良くなれるの?」(子ども)

「仲良くなれるよ。外国だからって戦争をする必要ないし、個々人は仲良くなれるよ。」(父)

という会話が・・・。子どもの方よ、外国の人とは仲良くなれないというのはどんな情報からそう思ったのかしらと思いつつ、お父さんにエールを心の中でそっと送りました。

しかし佐倉は東京や埼玉からは遠いのが難点(と言っても千葉も広いので千葉県に住んでいても佐倉が近いとは限らない)。東京駅から高速に乗って1時間40分くらいはかかり、しかも博物館から東京駅までのバスは15時発の一本しかないので、常設展をくまなく見たい方は、いっそ佐倉に前泊すると良さそうです・・・。


2020年11月8日日曜日

「被害と加害のフェミニズム、のなかで--栗田隆子氏のTwitterから考える」を読み感じたこと

 まず、このような私に対する「名指し」の批判がnoteに記載されておりました。これを書いた人(人たち)は「friends」とあり、私にはまずどなたかがわからない状況にあります。

https://note.com/heyheyfriends/n/nc7756d65a346

そして、この方達が批判している私のツイートは下記になります。https://twitter.com/kuriryuofficial/status/1303284634638102529


上記の私の発言に対して


「この発言にはうなづくことはできません。憶測に基づく無責任な発言」という批判でした。とありました。そのことについて私はいくつか意見を述べたいと思います。

さてそれでは本題に入ります。

この「憶測」というところがよくわかりません。

「”起きていること“を書く上で何かすごい大事なことを表している気がする”」のこの“気がする”を憶測と書いていると私は読み取りましたが、私は、ハラスメントも絡む(少なくともノーリミットソウルの話はハラスメント問題と言って良いでしょう)しかも複数の団体が絡み合って起きた出来事を書くことが「複雑になる」ことは大事なことを表している気がする、という意味です。つまりそれはこの諸問題に対する事実関係の「憶測」ではなく、「事実を書く」と「言葉」は「複雑になっていくことが大事」な可能性があるという意味です。つまり事実を書こうとする「言葉」に対する私自身の感想であり感覚であり直観だからです。それは事実関係を「憶測する」話とは違うとお伝えします。

そしてもう一つこれを「憶測」と取る問題と絡み「無責任」という言葉についても言及しなければなりません。

それこそTwitterという世界中に広がるツールで名前を出して書いたことには一定の責任を感じて書いています。そして私自身運動内のハラスメントや暴力の問題について、考えている身としてのこれは発言です。まずその時点で私は責任を感じているからこそ上記の発言となったと言わざるを得ません。

「私たちは判断に足る材料を出した」とfriends氏方々のブログには書かれています。これを書いた方々がそう考えてるのは分かりました。しかしfriends氏方々のブログと並びに反五輪の会の声明を読んだ私が、反五輪の答弁の分かりづらさから考えたい、善意であっても二次被害は起こり得ると、自分の名を出して私が語ることの何が「無責任」なのかが私にはわかりません。

正直興味深いのは私の判断を「間違い」とは書かず「無責任」と書くところです。friends氏方々ご自身たちは判断に足る材料を出したと認識されているのはわかりました。それはでもあくまでfriends氏方々の見解ですね。それに対して私がTwitter上で上記の発言をしたことをfriends氏が「間違い」と書かず「無責任」と書かれているところが興味深いです。

判断に足る材料を出したのに、それを判断しないのは「間違いだ」ならわかりますが、「無責任」という言葉をはどういう意味か。深く考えてみたいです。

そもそも「憶測」の解釈も私が使ったものとはズレていますが、その私の責任を問う根拠は自分たちが「判断に足る材料を出した」からだ、というのはつまり自分たちの意見が判断に足るものだと語っておられるのはご自身たちなわけですよね。

「判断に足る材料を出した」とご自身方で言い切っている文章に違和感を覚えるのは私だけでしょうか。判断をするかしないかという、そもそも読み手に任せるべきものである判断をコントロールする意図を感じるのは私だけでしょうか。

あと最後に。反五輪の会の見解は下記です。いくつもの団体、さらにノーリミットソウルでのハラスメント発言の問題なども関連してます。複雑さというわたしの言葉の意味を理解されたい方はこちらをどうぞお読みください。

https://medium.com/@hangorin2020/2018年11月上映会以来起こっている件について-私たちの見解-9d383fceb57a








2020年10月18日日曜日

【ご報告】中曽根康弘元首相葬儀の国費使用反対ならびに弔意表明を求めることに反対行動について



 さて、中曽根元首相の国費使用ならびに弔意表明に対する抗議行動を行ったのですが、

結果から言えば「行動」さえさせてもらえず、「プラカ」を持ってサボテンのようにたたずむことも敵わず
警察から私と一部の友人は公道を通してもらえませんでした。
皆さんにもこのことを知っていただきたくメールした次第です。
とにかく品川、高輪で起きたことは想像もつかなかったことでした。とりあえず私が分かってる知り合いの人たちは結果的には拘束されず無事で、それだけは良かったと思いますがひたすら恐ろしい状況でした。もうこの国は完全に振り切れた警察国家そして軍事国家非法治非民主国家だと断言していい、そう感じました。
と言うのも私と何人かのサボテン柄のマスクをしていた人々は現場どころか、まず品川駅の高輪口の横断歩道で警察に体を寄せて立ち塞がれ、通してもらえなかったのです。
その時点でシュプレヒコールもプラカードも何も出してません。サボテンのマスクだけです。それでマスクを外して(白いマスクに付け替えて)横断歩道を渡り、そして葬儀会場に向かう路地を曲がろうとしたときに(そこでも私たち以外の人も)警察に止められ通ることができません。それならばタクシーでと思ったらずっと警察が私たちをつけてきて、高輪駅近くでタクシーに乗って会場付近を走ろうとしても、他の車は通しているのに私たちの車だけは通させてくれない(つまりもう公安や警察に顔と行動をマークされている)状況でした。そして彼らは私(と一部の友人)が諦めて品川駅付近の某ファミレスに入るとこまで警察はチェック試続けていたのでした、この間においても私(たち)はシュプレヒコールもプラカードあげることも何も行動できません。
 私たちは横断歩道を通させてもらえないあたりで、グループがバラバラになってしまい、一部の私の友人たちでタクシーに乗ったひとたちは、実はそのまま会場の入り口真前まで行けたとのでした。また私たちのグループではない違う団体も中で抗議ができたと言うことです。要するに勝手に警察が危険視したものは道を通さず、「危険ではない」と判断したものは通す。そう言う法律に基づいた行動ではない「恣意性」が警察の中で働いていたと言うことです。
結局私と一部の友人はプラカを掲げて付近を佇むことさえ叶わず帰宅の途につくことになったのです。(このパラグラフの部分については会場内部で抗議行動された方から事実と違うとの旨をご指摘いただきました。下記ご指摘の部分を追記として修正いたしましたの合わせてご覧ください)
しかしその会場ど真前まで行った人は、そこで「恐ろしい」ものを見たと話してくれました。
まず会場入り口には人っこ一人いない。左翼はおろか右翼もいない。そして何よりマスコミもいない。
そんな状態で、会場入口には今度は警察ではなく軍隊もとい自衛隊が何百メートルも列をなして手を後ろに回して「起立」の姿勢でいるのです。そして時々ものすごい大声で号令をかけていたとのこと(意味はわからない)。友人たちはこれを見たとき「恐ろしいものを見た」「ここから離れたいと思った」「戦前かと思った」と口々に語っていました。
 そんな中で今日マスメディアのニュースを見たらたったこれだけしか書かれていません。
中曽根元首相の合同葬 菅首相追悼「改革精神受け継ぐ」
故中曽根氏に最後の別れ
今回行われたのは中曽根元首相を国費で行い事実上弔意表明を強制することによって
「戦時性暴力を行った人間に責任を問わず戦争責任を曖昧にして良い」
「原子力発電推進の責任を問わなくて良い」
「労組を潰し労働者の弱体化はなされていい」
「男女雇用機会均等法・派遣法・第3号年金などで女性を分断し、結局女性の社会的地位や尊厳などはどうでもいい(この女性の尊厳などどうでもいい、は戦時性暴力被害者に対する姿勢と共通のものを覚えます」
「『日本は単一民族』などと言う嘘をナショナリズムを押し通すためについても良い」
「そのことに異議申し立てする奴は許さない」
「このことに異議申し立てる奴は『危険分子』」
「表現の自由なんて消し去る」
という国家側の姿勢及び価値観の正当化がなされたのだと私は解釈しています。
私は昨日の出来事を経験した友人たちで文集を作りたいと今、考えてます。
また、この状況へのマスメディアの危機感の薄さも改めて怖さを覚えます。
でも今日はなんとか寝込むことなく、動けそうです。ただし、疲れ果ててしまい大盛りのパフェを食べたので昨日で1.5kgも増えました。ダイエットしていると言うのに今回のダイエット破りのみは国家のせいだと思えてなりません・・・
と軽い冗談(?)でも入れないと、本当に押しつぶされると思いました。
これを読んでくださっている皆様とは、この現実や思いを共有できればと願いながら報告書きました。読んでくださりありがとうございました。画像は結局抗議行動の中で出すことが叶わなかった(安っぽーい作りにした)プラカードです。
追記:この日の行動で、会場内部で抗議をされた杉原浩司さんから自分たちが団体ではなく個人有志に過ぎないということ、また警察から通したのではなく、葬儀開始時間から30分ほど遅れて登場し、バラバラに歩いていき、ホテル入口(正面ではない)の警備がほぼノーマークだったところを見逃さずにドンドン前進したというご指摘を受けました。確認をせず失礼いたしました。追記として掲載させていただきます。
滝澤 寿章

中曽根康弘元首相葬儀への国費使用に対する抗議声明

 元首相葬儀の国費使用反対、ならびに弔意表明を求めることに反対声明を作成しました。 この声明を出した「中曽根康弘元首相国費葬儀反対『サボテンスタンディングデモの集まり』」とは有志の仲間で『サボテン』とはこの社会の中で心身疲労しており佇んでいるだけでもいいから抗議しようと言う意味で名付けました。 以下、抗議声明と、そのチラシ(といっても直接配布はできないので画像をつけて)です。

(以下声明)
中曽根康弘元首相葬儀への国費使用に対する抗議声明
中曽根康弘元首相の葬儀になぜ1億円近い国費を使わないといけないのでしょう。違うところで使うべき国費(=税金)があるはずです。その根拠を中曽根康弘氏の言動をもとに以下列挙いたします。
中曽根康弘元首相、あなたは第二次大戦中海軍主計士官でした。あなたは下記のように書いています。
「原住民の女を襲うものやバクチにふけるものも出てきた。そんなかれらのために、私は苦心して、慰安所をつくってやったこともある。」『終りなき海軍』(松浦敬紀・編/文化放送開発センター/1978)
しかも防衛省にそれを裏付ける資料も存在しています。あなたは帝国的価値観を正当化し開き直る能力に満ち満ちていました。
あなたは戦後1955年に成立した「原子力基本法」の法案作成者の一人です。その際の演説でこう語りました。
「すでに、外国においては、原子力はかっては猛獣でありましたけれども、今日は家畜になっておる。遺憾ながら日本国民はまだこれを猛獣だと誤解しておる向きが多いのです。(中略)われわれが、雄大な意図をもって、二十年、三十年努力を継続いたしますならば、必ずや日本は世界の水準に追いつくことができ、国民の負託にこたえることができると思うのであります。」
日本に資源がないという理由で推進した原子力政策。しかし現実は2011年3月11日の東京電力福島第一原発事故やそれ以前の東海村での原子力事故等数々の事故が起き、その度に身体の損傷そして人命が奪われました。原子力発電所での労働により体を壊し命を失った人々もいます。あなたは見事な「楽観性」一般的に言う「見通しの甘さ」により現実を無視し続けたのです。また原爆の被ばく者に対し「病は気から」と、韓国人被ばく者の前では「日本は単一民族だからうまくいく」と言い放ちました。
政権につくための変わり身の早さで風見鶏と言われ、支持基盤の脆弱さゆえ首相就任後は「国民」の支持を得るため水泳や禅をする姿をTVで見せるパフォーマンス政治は小泉純一郎や安倍晋三、「パンケーキ」菅義偉首相らに引き継がれました。そして1983年、あなたは首相就任直後の訪米の際米紙社主との朝食会で「日本列島を不沈空母のように強力に防衛する」と発言しました。その「防衛」のための在日米軍基地は、あなたの住んでいる場所の近くではなくあの頃も今も沖縄に集中させているのです。
1985年8月15日あなたは戦後初の「内閣総理大臣」として「公式」に靖国神社に参拝しました。<信教の自由><政教分離の自由>などものともせず、それは後に小泉元首相にも引き継がれ、政教分離をガタガタにしました。
国鉄労組(国労)を潰し、日本労働組合総評議会、通称「総評」をつぶし、日本労働組合総連合会、通称「連合」を作り上げました。今や連合は「日本会議」と名を並べて天皇即位を祝う組織となりました。あなたの思いは願ったり叶ったりでしょう。のちにあなたは国鉄分割民営化の真の目的は国労を潰すことだったと自ら発言しています。労働者への無関心ぶりは日本の今の自民党を中心とした政治家が見習っているのでしょう。
1985年男女雇用機会均等法の成立。一見良さげな法律ですがすかさず派遣法・第3号年金制度も成立させ女性の分断にも成功しました。さすが新自由主義実現の責任者です。「慰安所」を作り複数の国の女性へ日本軍が性暴力を行った責任者の一人だっただけのことはあるというべきでしょうか。
「売上税」という消費税につながる政策もあなたが首相の時代に作られました。廃案になりましたが、今や消費税は10%。個々人は増税に苦しみ企業を遇するあなたの価値観は今や見事に実現されております。
いわばあなたは30年後の現在において多くの人の苦しみの元となった制度や慣習の原型を作りました。しかもそれらを「素晴らしいこと」として日本政府は最高位の勲章である「大勲位菊花章頸飾(きっかしょうけいしょく)」をあなたに授与しました。こんな勲章は私たちには無価値ですがその結果葬儀を「国費(=税金)」で行い、あなたの行いを「良きもの」とさせ、全国の国立大学や教育委員会に弔意表明を求める日本政府に抗議いたします。
中曽根康弘元首相国費葬儀反対「サボテン」スタンディングデモの集まり
(*『サボテン』とはこの社会の中で心身疲労しており佇んでいるだけでもいいから抗議しようと名付けました)
(ここまで)

2020年4月8日水曜日

首相官邸に意見を送りました

首相官邸に本日送った私の意見です(ほぼ短文を含めて毎日首相官邸に送ってますが、今日は長文なので、こちらにもアップします)。
昨日(4/7)の会見を動画で見ました。
本来であれば緊急事態宣言など必要なく、現金給付をし内閣府や厚労省その他関係部署から綿密な住民への周知をしていけば、誰もいたずらに外出などしないはずでした。
現金給付も行わず緊急事態宣言をして、しかも責任も取らないような発言をした安倍首相は辞任した方が良いと私は考えます。しかも会見の中でわからないのは一律給付より申請方式の方が早く対応できると語った点です。一律給付だと3ヶ月かかる。申請方式ならば給付は5月で実践可能だと安倍首相は言いました。しかし申請方式はそれこそ現場が書類を点検し、場合によっては各部署や外部に問い合わせながら作業を進めるのではないですか?それならばよっぽど一律現金給付の方が早いのではないですか?しかも彼は現金給付の質問をした時に最初に語ったのは中小企業の給付の話でした。主権在民ではなくあたかも主権在企業とでも言いたいように私には聞こえます。個人など優先順位の下だと彼は考えているのでしょうか。
さらに伝えたいのは、緊急事態宣言などのこのどさくさで憲法改正などの話などされてはたまらないと言うことです。そんなことをするより前に日本に住む人々の安全安心な生活を担保してください。
最後に一言「国民の協力をお願いします」と盛んに安倍首相は会見では話をしていましたが、政府の役割からいえば逆です。つまり「日本に住む人々の安全を担保するために、私たち政府は一丸となって協力、サポートしていきます」と語るべきなのです。まず第一に日本に住む人々は日本国籍の人だけではありません。さらに政府に主権があるのではありません。主権在民です。主権が政府にあればそれは又の名を「独裁政治」と言うのです。
まとめますが
・とにかく早く一律に現金給付をすること
・憲法改正など、この時期に行わないこと
・企業優先ではなく一人一人の生活を第一に考えること
・「国民の協力を仰ぐ」のではなく「日本に住む人々が安全安心な生活を送れるよう政府が全面的に協力、サポートする」姿勢に変える必要があること。
・そして上記のことができうるような首相が必要なので安倍首相は辞任すべき。
以上を要求します。