2020年12月31日木曜日

2020年を振り返る

 今年もいよいよあと数時間で終ります。私も改めて今年を振り返りたいなと思います。

今年は私の転機となりました。

2月に個人事業主になったこと、その後4月にコロナにおける緊急事態宣言に伴い某データ入力の仕事を雇止めされ、改めて生活保護さらに障害年金を申請し、受理されたこと、それとともに、ここ20年近くで久しぶりと言っていいほどに、いわゆる雇用関係における労働を全くしない状況になったことなど、いくつかの転機がありました。

さて、そのような中で唯一仕事があったのが、ものを書く仕事。あるいは誰かの前で話す仕事でした。

自分は今まで「ものを書く(雇用関係にある)労働者」であり、かつそのようなアイデンティティを持っていたのですが、自分はもっと何かを書く必然性があるのではないか、と考えるようになりました。

さらには、雇用関係の労働がなくなり「障害者」となり、自分の「うつ」にちゃんと向き合う必然性も生まれました。

自分は今まで夜型かと思っていたら、実は朝方で、ものを書くために夜遅く寝ることになっていたために睡眠障害が起きていたことに気が付きました。

そして肥満、脂肪肝、コレステロールの増加といったうつに伴って現れる身体的な問題を解決する必要を感じました。

食事療法や(社会運動の方ではない)運動をはじめ、さらには自分が今まで無理して(社会運動をするなら)「広げるべき」と考えていた人間関係を縮小し、そして何より今までは「やれる」と思っていたことを控えるといった、具体的に生活スタイルを変える年となりました。

 私は今までどこか、それこそケアワーカーをしながら労組を作るというような生き方に憧れてました。でも私にはそれは無理だということが改めてわかりました。

私は来年の目標として、まず書くことをきちんとやっていこう、と思っています。そして本を読むこと、あと社労士の資格を取ること。より労働についてちゃんとしたものを書くために必要と感じたからです。

 あとはもう少し「健康」になることでしょうか。でもそれは「健常者」になるという意味ではありません。むしろ今までやれたけど「できなくなった」ことを許し、自分なりの生活を送っていくことを「健康」と言いたいと思います。

 コロナに限らず、風邪、インフルエンザ、精神疾患、生活習慣病、悪性腫瘍等々世の中にはさまざまな病気があります。何卒皆さまご無事で、新しい年をお迎えください。

2020年12月25日金曜日

福音と世界2021年1月号

 福音と世界2021年1月号 | 

生きる・はたらく事務所 https://ikiruhataraku.booth.pm/items/2627933 #booth_pm  

上記からの通販のお知らせ大変遅くなり失礼いたしました。

今回の連載「I Say a Little Prayer 開かれる世界10」は、「友達」というタイトルで書いております。ご覧いただけたら幸いです。匿名で購入できます。

2020年12月24日木曜日

Happy Holiday and Merry Christmas!

 ディック・ブルーナ作 ふなざきやすこ訳 『クリスマスって なあに』より


『はらっぱ 子どもの人権・反差別・平和を考える』寄稿しました

こちら『はらっぱ 子どもの人権・反差別・平和を考える』に"怖くてクソどうでもいい仕事/人を育て支える仕事"を寄稿しております。よろしかったらお読みください!



最近しみじみわかったこと。

 「鬱になったら賃労働はやめましょう」

いや、今雇用関係の仕事につかないで半年以上になるんですけど、元気になるというか

「疲労が重ならないで、元気な要素が貯金のように積立されている」って体感してます(銀行の例えがこれから続いてしまってあまりいい例えとは思えないのですが)。

いや、毎日フルタイムの仕事とかじゃなくても、鬱になると疲労回復のターンが長ーくなるので、疲労が取れないのだ。なので、鬱になったらちょっと元気になっても、元気の積立が満額いたるまではまだまだ仕事を休まないといけないし、大袈裟な言い方すれば、鬱になったらもう「あんまり向いてない仕事」は(たとえそれが素晴らしい仕事でやるべきとか思ってても)放棄しないと生きてけないということ。だから、もっと「賃労働じゃなくても生きていける」方法とか、そこでの時間の過ごし方とかを考えていくことがひいては鬱になっても生きていける方法だと改めて肌身で分かりました。


2020年12月22日火曜日

『女性学年報』41号の中の遠山日出也さんの「日本の左派とフェミニストの中にある新自由主義認識の問題点——家族賃金・能力主義・個人単位化などの概念の多義性と資本主義認識を中心に」を読んで

 『女性学年報』41号の中の遠山日出也さんの「日本の左派とフェミニストの中にある新自由主義認識の問題点——家族賃金・能力主義・個人単位化などの概念の多義性と資本主義認識を中心に」論文、必読です!

https://www.jstage.jst.go.jp/.../41/0/41_23/_pdf/-char/ja

多くの人に読んでほしいと思います。ちなみに(fbでは「友人」でもある)落合恵美子さんの『21世紀家族へ第4版 家族の戦後体制の見方・超えかた』が引用され、その中に私が登場する部分があり、そこを遠山さんが用いながら論を展開されている部分があります。

私は『21世紀家族〜』を謹呈いただいていましたし、ここの箇所も読んでいたのですが、遠山さんの論に触発され、また本を謹呈されてからさらに確信を持った部分を含めて、改めて私自身もこの部分について触れたいと思います。ちなみに遠山さんが落合さんと私について書かれていることは下記となります。

「落合は、自らも関わった 2010 年のあるシンポジウムが、栗田隆子ら貧困運動関係の活動家に抗議されたことについて述べた際、女性に関する政策実現のためにはフェミニスト官僚、シ?ェンダー研究者、 女性運動家、政治家などの異なった立場の女性たちが連携することが必要なのに、「『エリート女性』に 対する冷ややかな目」がそれを妨げていると批判している。その際、落合は、かつて「『雇用平等法反 対』という運動」があったが、「今にして考えると反対なんてとんでもなかった」と言う。なぜなら、 反対した女性たちは、均等法は「労働基準法の女性保護撤廃とセット」だから「労働者の権利を犠牲に して、エリート女性に都合のよい法律を作ろうとしている」と批判したが、均等法は「現在から見れ ば、すべての働く女性にとって(......)無ければ困る法律だった」からだと述べる[落合 2019:293-294]。 しかし、まず、当時の女性運動のほとんどは雇用平等法の制定を要求しており、反対したのは、あくま でも「保護抜き平等」や「骨抜き『平等法』」に対してだった。たしかに落合が述べたような理由から 雇用平等法に反対した運動もあり(「主婦戦線」など)、私もそうした運動は一面的だったと思うが、それらの運動についても、女性間の階層差の認識などの点で当時の女性運動の弱点を突いていた面を主張する研究もあり[村上 2012]、そうした点についての検討は必要だろう。また、現在でも、非正規雇用の女性など、均等法の恩恵をほとんど受けていない「働く女性」も少なくない。実践的にも、落合の 議論では、階層間の連携について、非エリート女性やマイノリティ女性からエリート女性へという方向が強調されすぎるように思う。」 

上記に関連する落合さんの『21世紀家族』で箇所は下記のようになります。

「女性に関する政策を実現するには『ビロードの三角形』もしくは『ビロードの四角形』が働くことが重要だといわれます。フェミニスト官僚。。ジェンダー研究者、女性運動家、それに政治家が連携して法改正などに成功するケースが多いというヨーロッパやアメリカの経験から生まれた言葉だそうです。別にこの三者ないし四者に限らず、企業の人たち、メディア関係者などの役割も重要ですし、男性が入ってもいいと思いますが、異なる視点や権限を持った異分野の人たちが連携するのは大きなことをするために重要です。日本ではこの連携が下手なのが問題ではないかと私は思っています。「エリート女性」に対する冷ややかな目がこれと関係していると思います』という部分です。

そしてその前のいくつかのパラグラフでは私がパネリストとして参加した2010年の日本学術会議社会学委員会ジェンダー研究分科会主催の「ジェンダーから展望する新しい社会の仕組み—女性の貧困・雇用・年金」で私がパフォーマンスと意見を述べたことについて記載されています。こちらは社会運動界隈でも賛否を招いたのですが、この出来事は、拙著「ぼそぼそ声のフェミニズム」にも書かれてあり、このイベントをめぐってパネリストと主催者側の意見が2冊合わせて読めばよりわかりやすくなるかと思います。

さて落合さんは私の発した意見の中で

「家族や資本や国家に包摂されたくない」ということ、また「自分たちはなってはいけない存在なのか」という問題提起が突き刺さったとあります。そしてその私からの問題提起を受けながら、前述したような(学者への批判は受け入れる必要があると考えつつも)「エリートへ女性に対する冷ややかな目線」は女性の連携を妨げるものと書かれています。

さて、しかし「エリートへ女性に対する(エリートじゃない女性の)冷ややかな目線」は女性の連携を妨げるものなのかは少々考えたいところです。

まず一つは、それであればブラック・フェミニズムやその他「異性愛白人中産階級女性」が中心であったフェミニズムの批判という歴史をどう受け止めているのか、という話をせざるを得なくなるでしょう。「異なる視点や権限を持った異分野の人たち」の中に階級が異なり、あるいはセクシュアリティが異なり、あるいは人種が異なり、という点はどこまで考慮されているのでしょうか?あるいは「異なる視点や権限を持った異分野の人たち」が対等に話し合いができるためには、「批判」というプロセスが飛ばされたとは思えません。それはオードリー・ロードやベル・フックスやそのほかを読めば明らかだと思います。

また、社会運動の中で「インターセクショナリティ」という概念が注目を受け続けています。差別というものは単独のイシューとして現れるのではなく、黒人女性である、外国にルーツを持つ女性、部落の女性、そのほか複数の立場、属性、位相の中でこそ差別はより鮮烈に引き裂かれるものとして現れることに焦点が当たっています(逆に利点が重なることでエリート性が強化されもします)。もちろんそれはかつてからあったことですが、いま新自由主義の社会においては、その交差性の中でこそより差別は鮮烈になされていると言えるでしょう。そのことに異議申し立てたことに「エリート女性への冷ややかな視線」と書くのは少々現状の差別問題への視点が平板ではないかと思われます。

また、それこそ今年の11月に「99%のためのフェミニズム宣言」という本が邦訳されましたが、こちらはエリート女性への冷ややかな視線どころではなく、シェリル・サンドバーグの「リーン・イン」への痛烈な批判から始まります。

男性並みの平等、エリートの立場に「リーン・イン(前のめり)」になることがフェミニズムなのか?男性の権力、人殺しをする平等に女が加わりたいのか、という「リーン・イン」的は発想への痛烈な批判です。アメリカの能力主義と日本の能力主義はまた違いがあるので、この本を日本に簡単に落とし込めるかどうかという問題はありますが、少なくともここで語られる「アメリカやヨーロッパ」は落合さんの語られる「アメリカやヨーロッパ」とは随分異なるものだ、といわざるを得ません。またリーン・インを痛烈に批判している人が、ナンシー・フレイザーという「エリート」の「学者」であるという事実をこの『ビロードの三角形』もしくは『ビロードの四角形』を主張する人々はどのように捉えているのか、非常に気になります。

私自身は、ちなみにじゃあ日本のフェミニズムはじめ社会運動がなぜ連携が下手なのかを考えるに「運動の中の<リーダー>学者の中の<より権限を握っている人>が話を聞かず、あるいは理解できず、自分の都合の良いように動く<駒>を無意識で求めている」といった人間関係により、さまざまな「ハラスメント」が横行していること、これがフェミニズムを含めた日本の運動が停滞している大きな要因の一つであると私は考えています。最近社会運動の中の性暴力やハラスメントの問題を被害を受けた立場の人が告発をし、ようやく「隠されていた」ことが表面に現れました(私は無理に当事者に告発をけしかけたくはありませんが)。また、社会運動団体と一口に言いましたが、ジャンルや考え方さえ違う団体でも、ハラスメントは多発しています。カトリック教会の「聖職者」による性暴力・性虐待が話題になっていますが、カトリック教会のような「保守」でも労働運動などの「左翼」でもそして「フェミニズム」でも同様に起きているこのことこそ「社会的構造」が生み出したものと考えるのが妥当ではないでしょうか。

そこには能力主義(何を能力と見做すかを含め)や競争をしいられること、世間の評判を上げなければ存続できない等々、ハラスメントを起こす背景を考える必要があるでしょう。そしてそこにもまた新自由主義や資本主義の問題に接続していく「根」がある、と改めて述べていきたいと考えています。


2020年12月6日日曜日

#殺すな 殺害されたホームレス女性を追悼し、暴力と排除に抗議するデモ(12/6)に寄せて

 本日12月6日の下記のデモ、本当は代々木に行って、声をあげたかった。殺すなと言いたかった。それだけ私には感じるところ、思うところのある事件でした。

殺害されたホームレス女性を追悼し、暴力と排除に抗議するデモ(12/6)

しかし諸事情によりどうしても参加が叶わず、デモに参加できない代わりにこのような文章をしたためることにいたしました。

渋谷区幡ヶ谷のバス停で(バスの乗り降りがない時間だけ座っていたという)ホームレスの女性が殺害されたというこの事件は正直、ホームレス状態ではない女性たちにおいても「他人事ではない」という危機感を募らせていると私は感じています。SNSでも「他人事ではない」「自分でもおかしくない」という意見が散見されました。

私もその一人と言えるでしょう。コロナで4月に雇い止めにあい、生保を受け、その後(以前からすでに治療は受けていた)うつ病のために障害年金を申請したところ受理されました。現在、障害年金と原稿と講座の仕事で暮らしている私。しかしこれがもし住居もなく(今は知人の厚意で貸してくださっている家に住んでいます)、家族もなく、住む場所もなく、バス停のベンチで寝起きを余儀なくされていたとしたら。それは私にとっては「違う世界」の話では全くないのです。あの殺されたMさんは10数年後の私の姿かもしれない。

殺害者はゴミ拾いのボランティアをしていたと報じられました。身寄りがなく、貧しくて、住む家もない女性は彼にとっては「ゴミ」に見えたのでしょうか。このような事件が起きるとゴミ拾い(拾った後「始末」される)という言葉がひどく暴力的なものに思えます。事実ホームレス状態の人を宮下公園から排除することに嬉々としていた渋谷区ではゴミ拾いのボランティアが盛んだそうです。さらに1964年の東京オリンピックでもゴミ拾いが盛んに行われており、またオリンピックのために路上で生活していた人を追い出していたと、先日友人から知りました。ゴミは本当に無駄なのか。ゴミって何なのか。ゴミだから悪いのか。

LGBTQの人たちのことを「生産性がない」と言い放った政治家もおりますが、産まず、貧しく、身寄りもない女性はをゴミと考え、ゴミはとにかく悪いものとみなし、生産性がないと突き放せる、そんな価値観に囲まれながら今の私たちは生きている。その現実がよくわかる事件でした。

しかし、ホームレス状態の女性で殺されたのはこの幡ヶ谷の女性だけではありません。

2020年に限った話でも3月30日、上野公園で70代のホームレス状態の女性が殺されました。この報道を読む限り、殺害容疑の作業員の60代男性は「逃走の恐れがないため」逮捕しなかったという異例の事件でした。

「上野でホームレス女性殺害容疑 60代の男を書類送検」

また3月25日に起きた朝日大学に当時在籍していた男性5人によるホームレス男性の殺害されましたが、彼らはホームレスの女性にも常日頃石を投げていました。しかもこの事件は、殺人事件が起きる以前に、殺害された男性が警察に何度も相談をしているにもかかわらず起きた事件なのです。

最後に渋谷のデモに参加できたなら持っていこうと思っていたプラカードの画像を挿入し、Twitterデモで呟くハッシュタグを載せます。


#ゴミってなんだ

#ベンチに座らせろ

#渋谷区ホームレス女性殺害に抗議する

#野宿者に対する排除と暴力を許さない

#殺すな #殺すな #殺すな