2013年10月28日月曜日

インタビュー記事が掲載


「働く女性の人権センター いこる」からの情報誌「いこ★る」2013年秋号に、私のインタビュー記事が掲載されました。このインタビュー私が労働問題にかかわるきっかけや、その後の経緯、そして今考えていること等、とてもわかりやすくまとめてくださっています。もしよろしかったらぜひお手に取ってご覧ください。私のインタビュー記事と榊原裕美さんの論考が「乙女ハウス」という言葉でつながって読めるのもまた趣き深いです。ただ、まだ通信の紹介のサイトが最新号のことは載ってないみたいです・・・。

http://homepage3.nifty.com/hatarakujosei/

「ひきこもりを地域の力に ~秋田・藤里町の挑戦~」を見て思ういろいろ


今日実家に戻って久々にテレビを見たら、NHKのクローズアップで秋田県藤里町の「ひきこもり」「調査」と「対策」を取り上げた番組をやっていた。
この番組では秋田県の藤里町に住むいわゆる稼働年齢層の10人に1人が引きこもり状態にいたこと、そしてこれは、秋田県が特別ということではなく、本気で調べればどの自治体もこういう数字なのではないかということ、そして引きこもりの人に対して最初「カウンセリング」「遊ぶ場を作る」といった対策をしたがそれでは誰も来ず、ヘルパー研修のチラシを引きこもり状態の人が住んでる家に撒いたところ、その説明会に引きこもり状態にいた人の多くが集まったこと、そしてそこから「中間的就労」(最低賃金より安い!)の場で「社会的接点」が生まれてる(らしい)様子が描かれていること・・・が放送されていた。

私がこの番組を見て思ったことは、確かに引きこもりとなるとすぐ「病」(精神疾患)と結びつけてかんがえられがちだが、そこに「労働」という問題というか「社会的なるもの」を介在する必要があるということだ。
そして日本の場合労働と社会的接点が結びつきがち(これそのものももっと突っ込んで考えないといけない)ゆえに、就労支援が社会的接点を作る場所として考えられるが、それの可能性と限界をどこまで見極めるかということも重要だ。
というのも、中間的就労というのはいわば、「労働法が適応されない」仕事だ。私たちの周りは「労働法が適用されない労働」が周りにあふれている。それはひとつの重要な生命を支える「仕事」なのに賃金を労働法に見合った基準で支払われることにはならない。

こういうインフォーマルな労働と引きこもりの関係、そしてなぜそこに「男性」がこういう状態になると注目されるのかということをもっと突っ込んで考えたい。
それこそ男性ならば社会的接点を持つよう、より「迫られる」ということ、逆に女性はその「迫られ」感が薄いとしたら、それはいったい何なのかということ。そしてやはりこの番組でも引きこもりといえば「男性」が映されるということは、男性がインフォーマルな仕事で働くことは「変化率が高い」故に注目されるのだ。といってももう既にこのような現実は10年以上前からおこっていることで、未だにこのことが「変化率が高い」としてマスコミが取り上げること自体にもまた、日本のジェンダーに関する意識の欠如が現れているということだとも思う。


「社会的接点」という言葉が何度もこの番組ででてきた。私はこれは必要だと思ってる。社会的という言葉はうさんくさいが、社会的とは、まずは「家族以外の存在」であり、さらに家族以外の経済サークルとわたしは考えている。確かに「社会に出ろ」というプレッシャーゆえに、もうこの「社会的接点」というものそのものが非常にうさんくさくなっている。それこそ不登校において「学校に行け」という言葉が非常に強圧的だったように。その極めつけが社会人という言葉のいやらしさ、うさんくささだ。だが、逆に「仕事をしたい」と切実に語る人の話を聞くと、そこがまさに家族以外の人間と接する場であり、経済サークルでもあるという「社会的な接点だから」という人も結構いる。
そしてこの社会的接点をインフォーマルな労働に見いださざるを得ない人が多くなってしまっているということは事実だと思う。というかこれは昨日のアジア女性交流プログラムでもわかったのだが、それこそ経済成長著しいと見られるインドでさえ女性労働者の状況は「過去20年間の新規雇用の創出はインフォーマルセクターで生じている」ということなのだ。しかもインドの経済成長は「雇用創出を生み出すものではない」と語られていた。もう、経済成長と雇用創出をイコールで結びつけてはならないのだ。経済成長と雇用創出は結びつかないが、生活に必要な労働はある。その労働をなすことが「社会」につながることであり、生きていけるようになることで、はじめて「社会」という言葉がうさんくさくなくなるのではないか。少なくともその労働とはそれこそ、障がいを持つ人が、着替えるのに足をあげるのも労働といったことや、ケアを受けるのに指示をし、コーディネートするのも労働・・・というレベルにまで考えていく必要があるだろう。


社会的接点を奪われると人は本当にやる気や自信を奪われ「病」的な症状がおこることはとても多い。特に女性はハラスメント等でその接点を奪われがちで、それがまた「病」的な状況になる。その病こそが社会的なものなのだけど・・・そして社会的接点といわゆるフォーマルな労働は結びつけられるが、分けてかんがえざるを得ないのが現状だ。さらにそこでフォーマルな労働につけず、そこにインフォーマルな労働が社会的接点と抜きがたく結びつく場合が多いというのも現状。さらにインフォーマルセクターでの労働が増えている中で労働法や、社会保障などをどう考えていくかということ、そして社会的接点を奪われるという問題は「男性の身に起こる」と非常に問題視されるという点で、厳然たる「性差」がいまだにあるのだ。

やっぱり私は「女性」の「社会的接点」とは何かということを考えたい。その際に「社会」という言葉「公」という言葉が持つ、マッチョなものを厳密に批判する視点を持たなければならない。

とりとめないけど、とりあえずここまで。

2013年10月11日金曜日

『セックスワーカー×支援者サポートハンドブック(SWEETLY × Japan HIV Center出版)』を読んで

 私は、10月1日の午前中、宝塚大劇場にて宙組の「風と共に去りぬ」を見ながら不覚にも泣いてしまっていた。レット・バトラーの「情婦」、「商売女」と呼ばれるベル・ワットリングが南北戦争でかかる軍資金を寄付しようと、お金を手渡そうとするのだが「あんな女の金は汚い」といって受け取ってもらえない。その心ない扱いに対して「商売女だって、南部を思う気持ちは同じなのに、私だって人間なんだ」と叫ぶシーンで、思わずうるっときたのだ。
その一幕が終わった後、私に宝塚の面白さを教えてくれたSWEETLYの御苑生さんに劇場でお会いした。たまたま同じ日に観劇に行く事がわかり、幕間に会おうという話となったのだ。そこで、この本を渡してくれたのだ。
なんという…タイミング!


Sweetlyとは、「Sex Workers! Encourage, Empower, Trust and Love Yourselves! スウィートリー」という1995年にセックスワーカーの自助グループとして発足した団体だ。私は昨年に、メンバーである御苑生さんと知り合うとともにその存在をはじめて知った。
 私はこの本をめくるたびに、あのベルのセリフと、宝塚大劇場を思い出すだろう。というのも、ベルのセリフの「私だって人間なんだ」というセリフは、この本の主張につながるコアなものだったから。そして、この本について御苑生さんと語った場所が「宝塚大劇場」だったからだ。

 それにしてもこの本の構成はよく考えられているなあとおもった。ピンク色の側の表紙と、緑色の側の表紙との両方が「表紙」となっている。ピンク色の表紙を開くと「支援に役立つ情報とポイント」緑色の表紙を開くとセックスワーカー当事者がファシリテーターとなる「ワークショップマニュアル」となっている。情報と知識、そして実際に出会って学ぶ事。この両方がそろってこそ、本当にセックスワークについて「知り」、セックスワーカーに「出会う」ことが可能であると本の作りそのものが示唆しているようだ。セックスワーカーが一方的に視線に晒される対象であるようなかたちで、セックスワークをテーマとしている本や、一方的に聞き取られる側にセックスワーカーをおいた上で「売春について調査しました」という本はかなりあるが、セックスワーカーが中心となって行うワークショップが紹介されている本は極めて少ない。セックスワークに関する本を書くならば,それこそこの本を読んで、ワークショップなども参加し、相談の受け方(つまり話の聞き方)を学ぶことからはじめた方がいいのではと思いもした。
 この本ではセックスワーカーに対するNGワードについて語られているが、それは「偏見が繋がりを阻む」からだ。よく「あなたに不快をあたえてすみません」的な言い回しがあるが、不快を与えたからいい悪いではなく、どんな言葉が、考え方がセックスワーカーと自分を引きはがすかを考えた方が良いという事だ。逆に言えば、セックスワーカーと自分を引きはがすということは、どういう意味があるのか、そういうことをNG ワードから考える事が大事なはずだ。

この本は無料配布されるそうですが、次の冊子を発行するためのカンパは大歓迎との事。私もいくばくかの寄付と同時に、宣伝をしたい。sweetly のメールアドレスは sweetly.cafe@gmail.com

ここから少し私語りになるのをお許しいただきたい。