2022年11月30日水曜日

『エトセトラvol.8』収録 インタビュー "ジュディス・バトラー 反ジェンダー、反多様性にフェミニズムは抵抗する (聞き手:清水晶子/翻訳:西山敦子(C.I.P.BOOKS) 企画・写真:間部百合)を読んで

 早速『エトセトラ vol.8』購入。絶対読みたかったのはジュディス・バトラーへのインタビュー(清水晶子さんがインタビュアー)。トランス女性とフェミニズムに関するガチのインタビュー。おおむね賛同のところは多く、特にトランス女性の在り方が男性性のパワーを解体する可能性をなぜ考えないのか、という問いはとても興味深いです。

とはいえ違和感がないわけではありません。今日は違和感のところをあげていきます。それが決して看過できないところだと思うからです。

例えばバトラーの(最初、清水さんが笑っているのかと思ったのですが、バトラーが笑っていたのでした!!。謹んで訂正いたします。申し訳ありません)、

"これらの国々(ナショナリズムが激しくなってる国:引用者注)の多くで貧困が増加してます。彼らには理解不可能なグローバル経済の財政的なプロセスの悪影響を被ります(略)そのように非常に激しい経済不安を抱えて生活してる人々は、ゲイやレズビアンやトランスとも、フェミニズムやジェンダー理論ともまったく関係ない理由で(笑)、一種の安全地帯として家族の概念に固執します”

とあるけど、そこの何が面白くて笑ってるのですか?ということとジェンダー理論と関係ないという話なのかという疑問です。

...ジェンダー理論と関係ないではなくその後に書かれてように家父長制を復活させたいがための家族固執なんだから、関係ないなどというぬるい話ではなく"個人"をなぜあらゆる生活の単位にしないのかという意味を考える上でもジェンダーに絡んだ重要な話のはずです。

そしてその貧困の問題が深く関わるはずのフェミテックと生殖技術の問題で、こちらもバトラーの発言で

"トランスフォビックなフェミニストたちは、男性が掌握するテクノロジーに深い恐怖心を抱いてます。彼らが究極的には女性の存在を不要なものにしてしまうのではないか"と発言してるのですが、どうにもトンチキ感があります。

"女性の存在を不要なものにする"

のを恐れてるのではなくこの言い方に倣うなら

"女性の身体だけを資源として必要とされる(金を払う)"

ことを恐れてるんではないでしょうか。だからこそ代理出産や子宮移植反対の話にもつながるし、またその代理出産の担い手が結局誰になるのか?という問題は貧困の話にもつながるでしょう。

有色人種の問題や言語の問題には今回のインタビューでもとても鋭いのに、貧困に対する言説がどうして急に甘くなるのかが不思議で仕方がありません。まるでジェンダーにだけ疎い人の逆バージョンを見るような不思議な気持ちになります。

ちなみに2006年のバトラー来日時、確かお茶大で講演があり私も嬉々として参加しました。あの時はメランコリーについて話していた記憶があります。

このあいだも北原みのり氏の記事とそこで引用されたバトラーの発言を批判しましたが、まさかバトラーを批判するなんてことをしたくなる日が来るとは、と改めて思います。その北原氏の記事もバトラーの発言にと"資本主義"そのものへの批判は見受けられず、今回のこのインタビューでも資本主義という言葉は出ていません。家父長制は出てきますが。※ちなみに今回の特集は"アイドル"ですがそちらの記事はアイドルの労働者性に関する内藤忍さんへのインタビュー記事しか読んでおらずすみません。。

2022年9月28日水曜日

『安倍元首相「国葬」反対!9・27国会正門前大行動』でのスピーチ

2022年9月27日(火)。国会正門前で以下のスピーチをしました。15:15分過ぎ。時間にして5分少々でした。

(ここから)

みなさん、こんにちは。私は本当はねこの時間も武道館に行きたいんですよ。このお話をいただいた時も「大勢集まるならこの人数で武道館に行かないんですか?」と聞いたくらいです。国葬をやっている張本人やそれを無責任に支えている人間たちが今いるのは武道館だから。 

 私は先程まで武道館のそばまでデモで行きましたが、本当はこの人数でいければいいのにと思ってます。 でも私は今の時間、ここに話しに来ました。もちろん私は国葬反対です。でもこの場に来て話をする理由は私にとってそれだけじゃない。国葬を反対を語るとともに語らないといけない三つの理由があるのです。 

 申し遅れましたが、私は栗田隆子(くりたりゅうこ)というマイナーな物書きでカトリック教会の信徒で、そしてフェミニストです。

 まず私は宗教を信じる、信仰を持つ人間として、そしてフェミニストとしてもっともっと「政教分離」をガンガンに主張しなければならなかった。信仰は個人のもっとも「個」の部分を尊重するも斧だからこそ、国家との癒着をしてはならないともっと言わなければならなかった。そして誰かを追悼するといった宗教的 な行為を国家が強大な権力によって個々人に押し付けてはいけないと、信仰を持っているからこそもっとガンガンに主張しなければならなかった。先程小室等さんが伊丹万作の「戦争責任者の問題」について触れられていましたが、今日の国葬はまさに信教の自由から逸脱している、追悼を押し付けるな、信教の自由を守れと、一信仰者としての私の人生の中でもっともっと主張してこなければならなかったと反省しています。それが今日ここに来た一つ目の理由です。 

 山谷えり子、ここに来ている人はご存知ですよね。自民党の超タカ派の議員です。安倍元首相とともに彼女は旧統一協会と自民党を結びつけていたキーパーソンです。彼女は2000年代に日本社会の中でも推し進めてきた性教育を弾圧し、政策や自治体の中でジェンダーにおける平等を推し進めようとする試みに対しては「ひな祭りや鯉のぼも否定する」などと偏見を垂れ流し、最近ではトランスジェンダーの権利を一部トランス差別者と結託して抑圧している人物です。

 さて山谷えりこ。この人物は旧統一協会の信者ではありません。実はカトリック教会の信者なのです。彼女がカトリック教会の信者であることを恥ずかしながらつい最近知りました。どうしてカトリック信徒として私はろくに批判もせずこんな人物を野放しにしてしまったのかを反省しているとお伝えしたい。それが私がここに来た理由の二つ目です。 

カトリック信徒の政治家といえば実は、麻生太郎もそうです。しかし麻生太郎は幼児洗礼と言 って本人の意思ではなく洗礼を受けた人物で、さらにカトリックの活動はほとんどしていません。 しかし山谷えり子はカトリック教会の発進するラジオ番組などにも登場し、カトリック信徒としての活動もしています。それなのになぜ統一教会 と行動が取れるのかといえば、カトリックは第二次世界大戦で戦争協力体制を敷くなかで、「祖国に対する信者のつとめ」という指針を出して国家神道とその国家を受容してしまったのです。敗戦後今日に至っても、当時の見解を公式には撤回していないというのです。この姿勢が谷 えりこの跳梁跋扈を許してきてしまった。 私は一カトリック信徒としてこの件について責任を感じ、この見解を撤回するべきだと訴えます。 

 さて、三つ目の理由です。私は長年疑問でした。なんでカトリック教会含む宗教右派、山谷えりこ、安倍晋三など保守派や右派と呼ばれる人たちは伝統的な家族を死守しようとするのだろうって。て?も最近ようやく私はわかりました。あの人たちはリベラルや左派よりある意味ジェンダーの力、セクシュアリティの 力をわかってるんですよ。つまりやつらは人が生まれた瞬間から性別で上下があると教え込みたいんですよ。そしてその上下を当たり前だと頭で考えら得る頃より前に身体レベルで仕込んでおきたいんですよ。「おぎゃあ」といった瞬間から男は上で尊重さ れる存在、女は下で男を立てる存在とか、年上が偉くて年下が年上を尊敬する存在だ 

とか、男女のカップルしか許されないだとか、性に無知のまま子どもを作るのだとかは彼らが理想とする「家庭」の中でこそ仕込むことができると彼らはわかっているのです!それによって学校にも会社にも男性にもカトリック教会の司祭にも出産にも育児にも何一つ文句を言わない従順な奴隷を「女性」という名のもとに完成させることができる!!あるいはその従順な奴隷を監視する奴隷頭としての「男性」を完成させることができる!その奴隷と奴隷頭作成計画としての「家庭」の秩序を揺るがすとみなされたジェンダーやセクシュアリティを排斥することができる!みなさん、既存のジェンダー・セクシュアリティ規範の力を舐めないで。奴らの「家庭」政策を舐めな いで。この力によって人々は天皇を崇め続け、植民地支配や戦争に自らを駆り立てていったのです。これを語りたかった。それが今日来た三つ目の理由です。 私の話は終わりです。以上です。

(ここまで)


2022年9月20日火曜日

2022年9月15日学生にセクシュアルハラスメントを行なった渡部直己早稲田大学元教授及び早稲田大学に対する裁判傍聴

2022年9月15日。早稲田大学元教授渡部直己(以下敬称略。渡部と呼ぶ)によるセクハラおよび早稲田大学の責任を求めた裁判の傍聴をするため東京地裁に赴いた。下記のサイトに掲載するインタビューを原告と私と原告の共通の知人から依頼を受け、この夏に原告と会って話をしたこと、さらにTwitterでも紹介した「大学のハラスメントを看過しない会」(以下看過しない会と略)サイト http://dontoverlookharassment.tokyo/ からこの裁判のさらに具体的なことを知ったためである。

私はセクハラについては法律的な専門家では全くない。また裁判に関わったこともない。だが社会運動の中でもセクハラが横行していることを通して、セクハラ(あるいはハラスメント)の根深い構造を知った。それは拙著『ぼそぼそ声のフェミニズム』或いはその他拙稿でもたびたび触れている。傍聴に行くことが原告の力になることに少しでもつながれば、と思い東京地裁に行った。そしてその裁判傍聴直後に下記Twitterを投稿した。

(1)「原告の方とご縁あって本日、早稲田大学の元教授であり"文芸批評家"の渡部直己(敬称略)によるセクハラさらには早稲田大学の責任を問う裁判(東京地裁)の傍聴に行くが、渡部直己の答弁の酷さが予想を超えてどこから書いたらいいのか。裁判については下記サイトご参照ください。」

https://twitter.com/kuriryuofficial/status/1570389277347053572

(2)「答弁だけでなくなんだろう、被告の弁護人と意思疎通できてない感じとか。。。まとめて書きますので今しばらくお待ちを。。原告を心から応援します。」

https://twitter.com/kuriryuofficial/status/1570389854701367304

9月15日のこの日は午前10時からは原告の同級生の主尋問及び反対尋問。午後一時すぎからは原告の主尋問と反対尋問。そしてその後は被告の主尋問と反対尋問というスケジュールだった。傍聴には整理券も配られ、法廷はまずまずの人でいっぱいだった。

午前の同級生の証人は原告がいかに渡部から「特別扱い」をされていたかを証言した。「看過しない会」に書かれていたように「囲い込み」は第三者の目から見ても明らかだったという証言だ。

 午後からは原告の答弁と主尋問及び反対尋問だが、まずハラスメントを看過しない会に語られたような入試時からのおかしな対応や、他の教員に相談してもほとんど有効な手を打てなかったことなどには反対尋問ではほとんど触れられず、渡部の弁護人からは原告の来ている洋服についての質問など尋問そのものが二次加害でありかつ原告からは答えようのない質問も続いた。おまけに原告と渡部が顔を合わせないように衝立をしているにもかかわらず渡部と弁護人がゴソゴソと比較的大きい声でやりとりしているのがなんとも無神経に映った。正直その無神経さにおいて、法廷上でもハラスメントを行なっているように見えてならなかった。

また早稲田大学側の弁護人は、自分たちの責任をなるべく少なく見積もりたいがために「ハラスメント委員会」を知っていたのか知らないのか、ということばかりしつこく聞き、入試時の囲い込みなど早稲田大学にそれなりの責任がある部分についてはスルーしていた。そして驚くべきことに被告側の弁護人(渡部側の弁護人)と裁判官側がいつもどこかうっすら笑っているような気分の悪い対応をしていた。

さて、原告の答弁と尋問が終わり今度は被告渡部側の話となったのだが・・・これがすごかった(もちろん悪い意味で、である)。

まず裁判官の対応がとりわけ最初の段階では著しく渡部に好意的であった。渡部を裁判官が「先生」と呼びとても中立には思えなかった。

 しかし、渡部の答弁が始まると聴衆もドン引く発言が続いた。まず入試の際に原告の指導教官を誰が行うかという際に「誰も手が上がらなかったため」「自分が引き取ったのだ」という。入試の客観的な基準がはっきりしてないことを露呈してしまい、それを当然反対尋問(原告の弁護人)が問いただすがそれを早稲田の弁護人が止めようとするなど、正直法廷の体を成してない状態である。

いや、それだけではない。実は法廷内は「携帯電話がなったら退廷してもらう」と言われていた。しかし渡部の答弁と尋問の間、ある年配の男性の携帯が何度も何度も鳴っていたのに、裁判官からの注意がなかった。それなのにあまりの渡部の発言に傍聴席から失笑が出てきたときには、早稲田大学側の弁護人がものすごい勢いで抗議をした。そもそも原告の尋問の時は弁護人も裁判官も薄ら笑っている時があったのに、それには誰も注意をしていなかった。また3人裁判官が並んでいたのだが、そのうちの若手の裁判官はすでに書類提出した内容をほとんど読んでないのか?と思うような稚拙な質問を繰り出してきた・・・。

・・・と一事が万事こんな調子で、裁判劇という言葉があるがこれはなんの不条理劇なのかと目眩がしてくる。渡部被告は元よりこんな裁判官や反対側の弁護人と渡り合わねばならない原告に、改めて心からの応援を送りたい。

そのほか法廷に来ていた関係者のツイートをご紹介する(見落としがあったらすみません。以下五十音順)。

川口晴美@mizutori1

https://twitter.com/mizutori1/status/1571350432441847809

川口好美(練習生)@yosimikawaguchi

https://twitter.com/yosimikawaguchi/status/1570608377230946304

さ@saku_cakey

https://twitter.com/saku_cakey/status/1570425041397116933

大学のハラスメントを看過しない会@dontoverlookha1

https://twitter.com/dontoverlookha1/status/1570596899266367488




2022年3月26日土曜日

「人民新聞社への裁判提訴についての見解」を読みました


 「人民新聞社への裁判提訴についての見解」

https://note.com/jinminshinbun/n/n0973f52a704c?fbclid=IwAR1frE4qc99kQml8y9ZRD0FGaGnWDNCs21AF9OdFIhdJoY9npoyHGxVeqoQ

を読みました。

私自身が連載を降りた最大の理由としては、このセクハラ・パワハラ事件を通して見えてきた人民新聞内の個人と組織の曖昧さが原因で、人民新聞に対する信頼性が揺らいでしまったところにありますが、それがこのnoteでも垣間見えます。この件について人民新聞とのやりとりをしている中で人民新聞の組織としての言葉なのか、個人の一職員の言葉なのかがすごく分かりづらいのが怖いと思ったのですが、それが垣間見える点として、noteから引用したいと思います。

「原告がメンズエステの退職を決意した要因は、①原告が従業員Aに弾圧リスクについて相談したことに始まり、②弁護士や活動仲間との話、③11/25の昼の人民新聞での話し合い、④同日夜の別の集まり、などの経緯と、さまざまな個人・団体の関与の中で生み出されたものです。それを、全て人民新聞の責任にされ、諸要求が行われています。」

という部分の

「さまざまな個人・団体の関与の中で生み出されたものです。それを、全て人民新聞の責任とされ」

という点で、何が一個人の意思で何が人民新聞の意思かが、私が以前話を伺い、やりとりした限りではかなり不透明でした。これでは私との連載で何か問題があったときに、人民新聞の問題として取るべき問題を個人化されたりしたら怖い、と考えたからです。

当然人民新聞に真摯にこのセクハラ、パワハラを起こした出来事に向き合ってほしいと思って連載を降りたわけですが、その向きあう人民新聞の主体とはなんなのだろう?と改めて思うのです。

さらに

「要求2「自己批判文の紙面掲載」=研修を受講し、内省を深めることで作り上げていくものだと考えています。また、掲載の形態や、内容に異議があれば話し合いを続けます。」

とありますが、話し合いが破綻して裁判になってる中で今後紙面作りなどどのように話し合えるのかはかなり困難なようには見えます。

私自身は裁判の訴訟金額などについてはこのnoteを見るまでは一切知りませんので、その訴訟金額について私は公に触れることは一切致しません。それこそ残念な話ですが、少なくとも今の時点では訴訟の中で係争案件として原告と被告のあいだでやり取りするしかない時点にまで来てしまったのだろうと思います。

ただ、人民新聞の組織的な主体と個人の主体をどう切り分けるのかと言う問題と、話し合いがかなり厳しいと言う問題は、このセクハラ・パワハラの事件で私から見えてきた点ではあるので、ここに改めてその問題を提起したいと思います。

そしてそもそもなぜこのようなセクハラ・パワハラの事件が起きたのか、という根本的な視点がこの人民新聞のnoteからは見えない点は私としては非常に残念であり、かつ運動団体あるあるの既視感でもあり、私としては距離を置かざるを得なかったと思う点ではあります。重ねて申し上げますが非常に残念なことです。

以上です。


2022年3月22日火曜日

社会運動団体で発生した性暴力への対応をめぐる対話(小林美穂子・稲葉剛)を読んで

 社会運動団体で発生した性暴力への対応をめぐる対話(小林美穂子・稲葉剛)

を読んで以下、感想を書き記したいと思います。最初はFBに掲載したものを、改めてブログに掲載し直しました。お読みいただければ幸いです。

社会運動内における性暴力、種々のハラスメントにはさらに言いたいことは山ほどあって、それを本にしたいと言ってもなかなかいわゆる商業誌の本にならないので(出版社からは断られることもアリ)、もう文学フリマとかで売る自費出版本にしようかなと思っています。

日本社会の背景、つまり私が"ぼそぼそ声〜"で語ったように「社会運動も社会の内側にある」という問題と同時に「社会運動特有の問題」も抱えていると思うのですよね。

それこそこのシェアした対話が、なぜ「小林さんと稲葉さん」で可能でかつ注目されるのかということ含め(このお二人の関係性をどうこうここで言いたいわけではありません)、運動内の「公私」の境目の問題なども考える必要があります。ぶっちゃけて言えば運動内で誰かと誰かが付き合うことはままあり、それを咎め立てする気は私は全くないのですが、しかし同時にいわば仕事仲間が家族でもあると言った「公私」の境の曖昧さが、仲間内の庇い立てとか、問題が明らかにできない一因につながる場合もあります。私自身は恋愛のパワーが組織の維持に利用されている、という話を"ぼそぼそ声〜"で語りました。

しかしこれはそれこそ今の日本のトップが血族ばかりで繋がっていることと(安倍晋三とか麻生太郎を見ると明らかで、麻生太郎は皇室とも血縁関係ですよね)それこそ大きなレベルでも小さなレベルでも"相似"のようにおきていることなのでしょうか。もちろん量的な問題では圧倒的に麻生太郎とかの問題の方が大きいわけですが、しかし問題は小さいレベルでも通底しているというべきなのでしょう。この辺りの「公私」について考えることは難しいですが、必要なのかもしれません(付き合うなって意味ではなく・・・)。

あと、最後に私が語るより、やっぱり稲葉さんが語る方がインパクトが強い(ように思える)のは、人望の差なのか、キャリアの差なのか、あるいはジェンダーの差なのか・・・とモヤモヤしているということを、最後に書き残したいと思います。、私の本を参考文献にしてくださったとのこと、感謝の気持ちと、率直な気持ちは同時に存在し、それもともに書き記します。


2022年3月17日木曜日

<人民新聞セクハラ・パワハラ退職強要>被害者である村上さんを支援する会

 昨日、私が言及したセクシャルハラスメント、パワーハラスメントですが、"<人民新聞セクハラ・パワハラ退職強要>被害者である村上さんを支援する会"サイト上にて公表されました。私にこの事態を伝えてくださったのはこの被害当事者の村上さんです。nubatamano2.wixsite.com/website

2022年3月16日水曜日

人民新聞に誠意ある対応を願います〜連載終了のご報告〜

 みなさまにご報告があります。

私は2022年1月まで不定期に人民新聞で連載をしておりましたが、この1月を最後に連載を降りることにいたしました。

すでに人民新聞は上記については承知しています。

パワーハラスメント、セクシュアルハラスメントによって人民新聞を退職に追い込まれたことをそのご本人の女性から2022年1月に話を伺い、初めてその事実を知りました。

とても看過することはできず、その後人民新聞職員に問い合わせたところ、私から見て不安に駆られる曖昧な回答しか受け取ることができませんでした。信頼関係を持ってこれ以上連載を続けることはできないと考えました。

よって、冒頭申し上げましたとおり人民新聞の連載を降りることを公にお伝えいたします。

 私は2011年8月から2012年6月までの短い期間でしたが人民新聞に職員として所属していたことがあります。

 その際には紙面でジェンダーの特集をし、社会全体のみならず人民新聞内でのジェンダーに関する問題提起などもしてきましたが、残念ながらその実りはないまま今回の件に至ったのだと思うと、誠に残念で忸怩たる思いがします。

 人民新聞にはこの件に関する誠意ある対応を願います。

今まで掲載を楽しみにしていただいた方には大変申し訳ありません。今後他の媒体において文筆業は続けて参りますので、何卒よろしくお願い申し上げます。

2022年3月16日 栗田隆子


2022年2月6日日曜日

「追悼しねーぞ祝賀会」報告



石原慎太郎氏(元都知事・元代議士)死去に伴い
「追悼しねーぞ祝賀会」を開きました。
どんな人でも死者は追悼すべきという意見もありますが、「追悼しない」という意図を表明するための「祝賀会」を友人知人と開き、そこで出た話です。
ホモソーシャル・「家族」ストーリー・ポピュリズムとこれらは石原慎太郎氏が亡くなったからといって終わった話ではなく、今なお現在進行形であることを改めて確認できました。
よろしかったらご覧ください。

(以下「祝賀会」での話)
・石原慎太郎の暴言については下記のサイトが詳しい
http://camelop.g2.xrea.com/isihara/isihara_kansi.html
→これほどの暴言に対してなおも「石原節」という言葉で受け入れられる。
・石原慎太郎はなぜこんなにも受け入れられたのか?
→まず石原裕次郎という存在を忘れてはならない。若い人はほとんど知らないからこそ、石原慎太郎が単独で人気を得られたと思いがちだが、歴史忘却の罠かもしれない。
→石原裕次郎は女性人気もあったがまずもって「男性からの人気」で支えられていたことを忘れてはいけない。
→石原裕次郎の「ホモソーシャル」かつ「体育会系」のノリを憧れて、慎太郎は真似しようとしていたのでは?
Cf: 「石原裕次郎の兄であります。都民、国民を代表して、一種の革命をやってやろうと思う」(99年3月、都知事選への出馬表明会見)
Cf2:野宿者のアパート支援事業やそのほか排除に反対する運動の中で「裕次郎が悲しむよ」というプラカードが出てきたことがある。慎太郎は嫌でも裕次郎は好き?
→左翼の高齢の男性活動家の語りの中で「昭和の芸能人の代表」という言葉で「美空ひばりと石原裕次郎」と説明
→「石原軍団」「石原ファミリー」という極めてホモソーシャルな芸能界の力(ある意味大衆的人気)という存在無くして石原慎太郎は語れない。
→さらに石原慎太郎が「父親」であることで石原伸晃などの息子たちもまた政治や芸能界に入り込んでいく。
→都の文化振興事業「トーキョーワンダーサイト」(TWS)に、石原都知事の四男で画家の延啓氏を深く関与させていたことについて、「絵描きとして交際範囲もひろく、私は便利に使っている」「余人をもって代え難かったら、どんな人間でも使う」とのべ、開き直る。http://www.kensho.jcpweb.net/hunsenki/061125-223939.html

→芸能や政治という華々しい世界で展開される「家族」という物語に魅了される大衆という分析なしに慎太郎の受容を考えるのは難しい。
→女性の「家族」という売り出しはないのか(後で思いついたけど石井ふく子プロデューサー、橋田壽賀子脚本のドラマは「橋田ファミリー」と言われていたが、家父長制を克服しているかというと微妙)。
→石原プロダクションの作品で「西部警察」「太陽にほえろ」などあれほど、警察礼賛のドラマはない(今の警察ドラマの先駆け?)。
→石原プロはものすごいアクションをやっていたが、「ゴミ一つ落として帰らない」ことで話題になっていたらしい。「掃除」と「ファシズム」の関係(割烹着を着て皇居を掃除する女性団体によってバスに乗れなかった経験などが語られる)
→石原慎太郎は「都民葬」とかやるのか?
また14年に出版した「私の海」(幻冬舎)には“遺言”も記していた。
「ことさらに来世なるものを信じている訳でもないが、次に何に生れ変ってこの世に現われたいかといえば、いつか相模湾の外れの三つ石崎の沖合いの潮目で出会ったような巨きな離れ鯨になりたい気がしている」と鯨になって、自由気ままに世界中の大海原を泳ぐ姿を想像すると「心が弾む」と記していた。
 そして、「葬式不要、戒名不要。我が骨は必ず海に散らせ」と遺言状に記したという。https://www.tokyo-sports.co.jp/entame/news/3967826/
 →実際は家族葬が行われ、のちに「お別れの会」をやる予定
 https://www.fnn.jp/articles/-/310886
 →慎太郎の骨を相模湾に流す?←「海に向かってばかやろー」とでもいう?
 →慎太郎的なものは彼個人で終わるわけではない。むしろ「大衆」に受けることで、差別的言動を繰り返すのは維新(慎太郎が晩年に所属した団体)などでも引き継がれ、さらに悪化していっている。差別発言も「石原節」で済まされているように、現在は橋下徹等にも引き継がれている?

(ここまで)