2023年9月11日月曜日

雨宮処凛さん著作『非正規・単身・アラフォー女性「失われた世代」の絶望と希望』中国語に訳されました

 雨宮処凛さんが2018年に著した『非正規・単身・アラフォー女性「失われた世代」の絶望と希望』(光文社新書)がこのたび中国語に訳され発行され、雨宮さんから送っていただきました。ありがとうございます。私はこの本の中で雨宮さんの対談相手として登場します。


日本語の方は光文社新書なので表紙は薄いブルーのお馴染みの表紙な訳ですが、中国の本は背中を見せた女性の姿です。


以下雨宮さん宛に送ったお礼のメールの一部です


「・・・雨宮さんや他のインタビューされた方々同様、私の発言も中国語になっているのにも改めて感動しました。


映画監督で山形千恵子さんという方がおられるのですが、彼女の作品"たたかいつづける女たち〜均等法前夜から明日へバトンをつなぐ"というドキュメンタリー映画に私も出演し、その後その映画が英語でも訳された際に山上監督から「栗田の発言は英語に翻訳するのに翻訳家が苦労した」とおっしゃっていたので、私の発言が中国語に訳した際は苦労されたか気になります...。」


この本もまた中国の社会で何かを投じるものとなりますように。


というわけで本の一部をご紹介。

 



2023年2月14日火曜日

「困難な問題を抱える女性への支援に関する法律」のパブリックコメント記入に当たって

 「困難な問題を抱える女性への支援に関する法律」(以下困難女性支援法と省略)は現在2月18日までパブリックコメントを募集している。この募集において2種類のパブリックコメントが募集されており、(1)「困難な問題を関する基本的な方針(案)に関するご意見の募集について」と(2)「困難な問題を抱える女性への支援に関する法律の施行に伴う関係法令(案)に関するご意見の募集について」という二つだ。今回は主に(1)の方の言及が多くなると思うが、ぜひ(2)のパブコメも多く提出してこの法律が良い法律になっていってほしいと思う。
今年の1月31日、「困難女性支援法のより良い運用を願うつどい」に参加したことをまとめながら、自分がパブリックコメントを作るためのまとめを書きたい。そのことでパブリックコメントを書きたい人の参考になればと考えている。今まで行われてきた「困難女性支援法」にまつわる検討会有識者会議で想定されている層(これについては後述する)のみではないことがこの集いの中で示された。高齢者シングル女性、レズビアンやトランス女性といったセクシュアルマイノリティ、セックスワーカー(と自らをアイデンティファイする人)、アルコールや薬物の依存を抱える女性、アイヌ等の先住民族、障害者、・・・といった女性でありかつこの社会においてマイナーな属性とされる立場に立つ女性たちもまさに「困難な問題を抱える女性」であるはずだが、その立場の人たちに対する「支援」をどう考えるのかは、「困難女性支援法」における主要なテーマのはずと私は考える。またこの「集い」には参加してはいないが、外国人女性やホームレス女性などの存在も困難女性として当然考える必要があると考える。

さて、「困難な問題を抱える女性への支援に関する法律」(以下困難女性支援法と省略)は令和4年(2022年)に成立。令和6年(2024年)4月1日の適用を目指しており、「困難な問題を抱える女性への支援のための施策に関する基本的な方針(案)」(以下基本的な方針(案)と略する)が既にまとめられている。

 まず困難女性支援法の改正前は「売春防止法」(「旧売春防止法」と呼ぶ)で、この法律の目的は「性行又は環境に照して売春を行う恐れのある女子」と定義される「『要保護女子』の『保護更生』を目的」とするもので、「困難な問題に直面している女性の人権の擁護・福祉の増進や自立支援の視点には不十分なものであった。」とある。

 つまり売春(あくまで「売る」側)という「犯罪」を犯した、あるいは犯罪を犯す恐れのある立場に転落した「女性」を「保護」「更生」するのが「旧売春防止法」で、しばしばこの「旧売春防止法」は<上から目線><当事者の視点がない>と困難女性支援法の検討会や有識者会議の中でもしばしば批判されてきた。その後法律の運用としては「昭和45年度夫人保護事業費の国庫負担及び補助について」において「『婦人相談所又は婦人相談員がその受け付け時点において転落のおそれなしと認めた婦女子については、当該婦女子が正常な生活を営むのに障害となる問題を有しており、かつ、その障害となる問題を解決すべき機関が他にないと認められる場合に限り、転落未然防止の(下線は引用者)見地から当該障害となる問題が解決されるまでの間、婦人保護事業の対象者として取り扱って差し支えない』旨が示され、婦人保護事業の対象が『売春を行うおそれのある女子』以外にも拡大された」とある。興味深いのは『売春を行うおそれのある女子』以外にも拡大され、実質困難を抱える女性にその法律の適用が拡大されたのにもかかわらず、売春防止法というネーミングや法律の精神が変わらなかったのは、売春をすることを「転落」と表現することに躊躇がないその価値観においてであろうと私は考える。そしてその精神のまま21世紀にまで至った。

  又興味深いのは、平成13年(2001年)に施行された「配偶者からの暴力の防止及び被害者の保護等に関する法律」(以下「配偶者暴力防止法」いわゆるDV防止法)が婦人保護事業の根拠法の一つとなったということ、逆に言えば売春防止法に紐づいた形で「配偶者暴力防止法」が成立していることだ。また「日本に入国した外国人女性が監禁されたり、『売春』を強要されたりといった(人身取引の被害報告が増加したことを背景に、平成16年(2004年)に「人身取引対策行動計画」(人身取引対策に関する関係省庁連絡会議決定)が策定された。このような人身取引被害者の保護も婦人相談所が留置すべき事項となった。

 また「ストーカー行為等の規制等に関する法律」第9条で被害者に対する支援が明確に打ち立てられており、婦人保護施設での支援が通知されてもいる。

 このような状況を厚労省は「女性たちが直面している問題も多様化」し「婦人保護事業の対象者も拡大」したとみなしているが、「旧売春防止法における婦人保護に関する規定が抜本的に見直されることはなかった」。その後「女性活躍加速のための重点方針2018(平成30年6月12日すべての女性が輝く社会づくり本部決定)においては「『婦人相談所における支援について実施した実施把握の結果等を踏まえ、課題の整理を行い、社会の変化に見合った婦人保護事業の見直しについて有識者等による検討の場を設ける。その議論を踏まえつつ必要な見直しについて検討する』旨が決定された」とある。

 ここまでで注目すべきは、DV防止法や、外国人の「売春」含む人身取引、ストーカーといった問題を通して女性たちが直面している問題が多様化していると行政は考えてきた。しかしこれらはすべて「性」を軸とした関係性の中での困難である。もちろんそれらを軽視しろという話ではない。だが女性の経済的脆弱性、労働環境、年金制度、税制度といった問題がこの「多様化」の中に全く入っていないことに留意しつつ、「基本的な方針(案)」に記載されている「困難女性支援法における施策の対応者及び基本理念」を読んでみたい。

 法第2条は「法に基づく支援等の対象となる困難な問題を抱える女性について、『性的な被害、家庭の状況、地域社会との家計性その他の様々な事情により日常生活又は社会生活を円滑に営む上で困難な問題を抱える女性(そのおそれのある女性を含む)』と規定している。この部分で「女性が、女性であることにより、性暴力や性的虐待、性的搾取等の性的な被害に、より遭遇しやすい状況にあることや、よきせぬ妊娠等の女性特有の問題が存在することの他、不安定な就労状況や経済的困窮、孤立などの社会的経済的困難等に陥るおそれがあること等を前提としたものであり、このような問題意識のもと、法が定義する状況に当てはまる女性であれば年齢、障害の有無、国籍等を問わず、性的搾取により従前から婦人保護事業の対象となってきた者を含め、必要に応じて方による支援の対象となる」とある。基本的な方針(案)p.9では「女性特有の問題が存在することの他、不安定な就労状況や経済的困窮、孤立などの社会的経済的困難等に陥るおそれがあること等を前提としたものであり、このような問題意識のもと」という記載がある。そうであれば、女性の経済的脆弱性、労働環境、年金制度、税制度といった問題もこの「問題意識」の中に入ってきてもおかしくない。しかしこの後、以下の部分が続く。

 「特に、女性の尊厳を傷つけ、女性の人権を軽視する者である性暴力や性的虐待、性的搾取等の性的な被害を受けたものに対する支援は重要であり、被害による心的外傷から回復し、安定的な生活を営めるようになるための中長期的な被害を受けた者に対する支援は重要であり、被害による心的外傷から回復し、安定的な生活を営めるようになるための中長期的な支援を行うことは重要である」

 ・・・先ほど「DV防止法や、外国人の「売春」含む人身取引、ストーカーといった問題を通して女性たちが直面している問題が多様化していると行政は考えてきた。しかしこれらはすべて「性」を軸とした関係性の中での困難であると書いた。もちろんそれらを軽視しろという話ではない。だが女性の経済的脆弱性、労働環境、年金制度、税制度といった問題がこの「多様化」の中に全く入っていないことに留意」したいとも書いた。そしてせっかくこの「基本的な方針(案)」では「不安定な就労状況や経済的困窮、孤立などの社会的経済的困難等に陥るおそれがあること等を前提としたもの」という文言があるのに、「特に、女性の尊厳を傷つけ、女性の人権を軽視する者である性暴力や性的虐待、性的搾取等の性的な被害を受けたものに対する支援は重要」と書くことでやはり<「性」を軸とした関係性の中での困難>に優先度があるように私には読める。

 私は有識者会議を傍聴している中で「性的搾取」という言葉がしばしば登場した。しかしこの性的搾取とは何か、もっと言えば「困難女性」とは何かといった根本的な議論が有識者会議の中で出されることを期待した。しかしほぼそのような定義に関する議論はなされてこなかったといっていい。2月14日現在第三回までの有識者会議の議事録が公開されているが、強いて言えば、第三回会議の「支援対象となる女性でございますが」と「追及リスクの有無」という支援のテクニカルな話ののち 「年齢についてですが、今回の基本方針では全ての女性を対象として支援の方向性を 示すべきものと考えておりますが、論点の中には若年女性等の記述が随所に見られ、視点に 偏りが感じられます。若年女性の支援が必要であるということは当然ですが、偏りなく全て の年代の女性が支援の対象となるということが、明確に伝わるような基本方針としていた だきたいと思います」(p.18)とある程度だ。第三回では立教大学コミュニティ福祉学部教授の湯澤直美氏が「はじめに、法律の対象規定についてです。「性的な被害、家庭の状況、地域社会との関係 性その他様々な事情により」と規定することによって、困難な状況を幅広くすくい上げよう としている点は理解ができます。そのうえであえて一点申しますと、家庭や地域に包摂され ない状況に置かれている 40 代、50 代、60 代以上のシングル女性が取りこぼされてしまわ ないかという点について少しお話をしたい」(p.2)とあったが、その後有識者会議を傍聴していた身としては、この論点が展開されていったとは私には思えない。第二回の有識者会議で赤池構成員が「今回の基本方針に関する資料を拝見し、略称が「困難女性支援法」となっておりますが、 対象女性がこの略称に基づいた支援を我がことと思い、その支援を受けたいかと考えた時に略称を(下線引用者)「女性支援法」とした方が良いのではないかと考えますが、いかがでしょうか。」(p.29)といった発言はあくまでこれは「略称」の話であるし、また先ほどの「性」を軸とした関係性の中での困難という枠組みが確固としてある中で「困難女性」という主語すら大きすぎるものになってしまっている。しかし、この法律を「女性の福祉」「人権の尊重や擁護」「男女平等」といった視点を明確にするならば(1月31日院内集会にて配布された資料参照)、性的な暴力や虐待だけを特化すること(性的な暴力や虐待の問題を軽視するという意味ではなく、わかりやすい性的な関係だけではない形の女性の困難が存在すると言いたいだけである)は女性の多くの困難を取りこぼすのみならず、「困難女性」ということで自分が該当すると思って助けを求める多くの女性を各自治体で退けることになりはしまいかと、その混乱を大変恐れてもいる。女性の困難を即座に性的なものに限定していくことは、アジア女性資料センターが「(1/30)困難女性支援法のよりよい運営に関する院内集会へのメッセージ」にある「新法が差別的な売防法の枠組から真に脱するためには、性的侵害こそが女性の困難の中核にあるという本質主義的な見方」という批判に相当する部分でもあると私は考える。それは個々の女性が性的な虐待や暴力を受けて傷つくことは「犬に噛まれたものだから」みたいな言い方で軽視したり、性暴力や性虐待を受けて傷つくのはおかしいなどというトンチキな話ではなく、女性の存在のありようを「性的なもの」とだけ国家がみなすことのおかしさを私は批判しなければいけないと考えている。だからこそ「女性であることが脆弱さと結びつく多様な文脈が理解される必要」であるとは、女性がまさに性も含み込まれた人そのものの存在として「困難女性」を考えるべきだ、と私はこの困難女性支援法の施行を前にパブリックコメントを通して伝えていきたいと思う。

そうそう、最後に具体的な話。女性自立支援施設の設備及び運営に関する基準(省令)(案)、(冒頭のパブリックコメント募集の(2)に関係する)に記載されている「女性自立支援施設」の「設備基準」には「入居者一人当たりの床面積が、収納設備等を除き、おおむね9.9平方メートル以上とする」とある。これは以前の倍になったそうだ。それに繋がる話として「居室の入所定員」は「原則一人」となり(以前は複数人で同じ部屋に住むということもあったらしい)、「看護すべき児童を同伴する場合等」では「一人以上とすることができる」(以前は子供と離れて住まざるを得ないケースもあったという)とある。今回の困難女性支援法で具体的に役立つのはまずここの変更では、と私は思ったりするので皆様にお伝えして締めくくりたい。

 

 

 

2022年11月30日水曜日

『エトセトラvol.8』収録 インタビュー "ジュディス・バトラー 反ジェンダー、反多様性にフェミニズムは抵抗する (聞き手:清水晶子/翻訳:西山敦子(C.I.P.BOOKS) 企画・写真:間部百合)を読んで

 早速『エトセトラ vol.8』購入。絶対読みたかったのはジュディス・バトラーへのインタビュー(清水晶子さんがインタビュアー)。トランス女性とフェミニズムに関するガチのインタビュー。おおむね賛同のところは多く、特にトランス女性の在り方が男性性のパワーを解体する可能性をなぜ考えないのか、という問いはとても興味深いです。

とはいえ違和感がないわけではありません。今日は違和感のところをあげていきます。それが決して看過できないところだと思うからです。

例えばバトラーの(最初、清水さんが笑っているのかと思ったのですが、バトラーが笑っていたのでした!!。謹んで訂正いたします。申し訳ありません)、

"これらの国々(ナショナリズムが激しくなってる国:引用者注)の多くで貧困が増加してます。彼らには理解不可能なグローバル経済の財政的なプロセスの悪影響を被ります(略)そのように非常に激しい経済不安を抱えて生活してる人々は、ゲイやレズビアンやトランスとも、フェミニズムやジェンダー理論ともまったく関係ない理由で(笑)、一種の安全地帯として家族の概念に固執します”

とあるけど、そこの何が面白くて笑ってるのですか?ということとジェンダー理論と関係ないという話なのかという疑問です。

...ジェンダー理論と関係ないではなくその後に書かれてように家父長制を復活させたいがための家族固執なんだから、関係ないなどというぬるい話ではなく"個人"をなぜあらゆる生活の単位にしないのかという意味を考える上でもジェンダーに絡んだ重要な話のはずです。

そしてその貧困の問題が深く関わるはずのフェミテックと生殖技術の問題で、こちらもバトラーの発言で

"トランスフォビックなフェミニストたちは、男性が掌握するテクノロジーに深い恐怖心を抱いてます。彼らが究極的には女性の存在を不要なものにしてしまうのではないか"と発言してるのですが、どうにもトンチキ感があります。

"女性の存在を不要なものにする"

のを恐れてるのではなくこの言い方に倣うなら

"女性の身体だけを資源として必要とされる(金を払う)"

ことを恐れてるんではないでしょうか。だからこそ代理出産や子宮移植反対の話にもつながるし、またその代理出産の担い手が結局誰になるのか?という問題は貧困の話にもつながるでしょう。

有色人種の問題や言語の問題には今回のインタビューでもとても鋭いのに、貧困に対する言説がどうして急に甘くなるのかが不思議で仕方がありません。まるでジェンダーにだけ疎い人の逆バージョンを見るような不思議な気持ちになります。

ちなみに2006年のバトラー来日時、確かお茶大で講演があり私も嬉々として参加しました。あの時はメランコリーについて話していた記憶があります。

このあいだも北原みのり氏の記事とそこで引用されたバトラーの発言を批判しましたが、まさかバトラーを批判するなんてことをしたくなる日が来るとは、と改めて思います。その北原氏の記事もバトラーの発言にと"資本主義"そのものへの批判は見受けられず、今回のこのインタビューでも資本主義という言葉は出ていません。家父長制は出てきますが。※ちなみに今回の特集は"アイドル"ですがそちらの記事はアイドルの労働者性に関する内藤忍さんへのインタビュー記事しか読んでおらずすみません。。

2022年9月28日水曜日

『安倍元首相「国葬」反対!9・27国会正門前大行動』でのスピーチ

2022年9月27日(火)。国会正門前で以下のスピーチをしました。15:15分過ぎ。時間にして5分少々でした。

(ここから)

みなさん、こんにちは。私は本当はねこの時間も武道館に行きたいんですよ。このお話をいただいた時も「大勢集まるならこの人数で武道館に行かないんですか?」と聞いたくらいです。国葬をやっている張本人やそれを無責任に支えている人間たちが今いるのは武道館だから。 

 私は先程まで武道館のそばまでデモで行きましたが、本当はこの人数でいければいいのにと思ってます。 でも私は今の時間、ここに話しに来ました。もちろん私は国葬反対です。でもこの場に来て話をする理由は私にとってそれだけじゃない。国葬を反対を語るとともに語らないといけない三つの理由があるのです。 

 申し遅れましたが、私は栗田隆子(くりたりゅうこ)というマイナーな物書きでカトリック教会の信徒で、そしてフェミニストです。

 まず私は宗教を信じる、信仰を持つ人間として、そしてフェミニストとしてもっともっと「政教分離」をガンガンに主張しなければならなかった。信仰は個人のもっとも「個」の部分を尊重するも斧だからこそ、国家との癒着をしてはならないともっと言わなければならなかった。そして誰かを追悼するといった宗教的 な行為を国家が強大な権力によって個々人に押し付けてはいけないと、信仰を持っているからこそもっとガンガンに主張しなければならなかった。先程小室等さんが伊丹万作の「戦争責任者の問題」について触れられていましたが、今日の国葬はまさに信教の自由から逸脱している、追悼を押し付けるな、信教の自由を守れと、一信仰者としての私の人生の中でもっともっと主張してこなければならなかったと反省しています。それが今日ここに来た一つ目の理由です。 

 山谷えり子、ここに来ている人はご存知ですよね。自民党の超タカ派の議員です。安倍元首相とともに彼女は旧統一協会と自民党を結びつけていたキーパーソンです。彼女は2000年代に日本社会の中でも推し進めてきた性教育を弾圧し、政策や自治体の中でジェンダーにおける平等を推し進めようとする試みに対しては「ひな祭りや鯉のぼも否定する」などと偏見を垂れ流し、最近ではトランスジェンダーの権利を一部トランス差別者と結託して抑圧している人物です。

 さて山谷えりこ。この人物は旧統一協会の信者ではありません。実はカトリック教会の信者なのです。彼女がカトリック教会の信者であることを恥ずかしながらつい最近知りました。どうしてカトリック信徒として私はろくに批判もせずこんな人物を野放しにしてしまったのかを反省しているとお伝えしたい。それが私がここに来た理由の二つ目です。 

カトリック信徒の政治家といえば実は、麻生太郎もそうです。しかし麻生太郎は幼児洗礼と言 って本人の意思ではなく洗礼を受けた人物で、さらにカトリックの活動はほとんどしていません。 しかし山谷えり子はカトリック教会の発進するラジオ番組などにも登場し、カトリック信徒としての活動もしています。それなのになぜ統一教会 と行動が取れるのかといえば、カトリックは第二次世界大戦で戦争協力体制を敷くなかで、「祖国に対する信者のつとめ」という指針を出して国家神道とその国家を受容してしまったのです。敗戦後今日に至っても、当時の見解を公式には撤回していないというのです。この姿勢が谷 えりこの跳梁跋扈を許してきてしまった。 私は一カトリック信徒としてこの件について責任を感じ、この見解を撤回するべきだと訴えます。 

 さて、三つ目の理由です。私は長年疑問でした。なんでカトリック教会含む宗教右派、山谷えりこ、安倍晋三など保守派や右派と呼ばれる人たちは伝統的な家族を死守しようとするのだろうって。て?も最近ようやく私はわかりました。あの人たちはリベラルや左派よりある意味ジェンダーの力、セクシュアリティの 力をわかってるんですよ。つまりやつらは人が生まれた瞬間から性別で上下があると教え込みたいんですよ。そしてその上下を当たり前だと頭で考えら得る頃より前に身体レベルで仕込んでおきたいんですよ。「おぎゃあ」といった瞬間から男は上で尊重さ れる存在、女は下で男を立てる存在とか、年上が偉くて年下が年上を尊敬する存在だ 

とか、男女のカップルしか許されないだとか、性に無知のまま子どもを作るのだとかは彼らが理想とする「家庭」の中でこそ仕込むことができると彼らはわかっているのです!それによって学校にも会社にも男性にもカトリック教会の司祭にも出産にも育児にも何一つ文句を言わない従順な奴隷を「女性」という名のもとに完成させることができる!!あるいはその従順な奴隷を監視する奴隷頭としての「男性」を完成させることができる!その奴隷と奴隷頭作成計画としての「家庭」の秩序を揺るがすとみなされたジェンダーやセクシュアリティを排斥することができる!みなさん、既存のジェンダー・セクシュアリティ規範の力を舐めないで。奴らの「家庭」政策を舐めな いで。この力によって人々は天皇を崇め続け、植民地支配や戦争に自らを駆り立てていったのです。これを語りたかった。それが今日来た三つ目の理由です。 私の話は終わりです。以上です。

(ここまで)


2022年9月20日火曜日

2022年9月15日学生にセクシュアルハラスメントを行なった渡部直己早稲田大学元教授及び早稲田大学に対する裁判傍聴

2022年9月15日。早稲田大学元教授渡部直己(以下敬称略。渡部と呼ぶ)によるセクハラおよび早稲田大学の責任を求めた裁判の傍聴をするため東京地裁に赴いた。下記のサイトに掲載するインタビューを原告と私と原告の共通の知人から依頼を受け、この夏に原告と会って話をしたこと、さらにTwitterでも紹介した「大学のハラスメントを看過しない会」(以下看過しない会と略)サイト http://dontoverlookharassment.tokyo/ からこの裁判のさらに具体的なことを知ったためである。

私はセクハラについては法律的な専門家では全くない。また裁判に関わったこともない。だが社会運動の中でもセクハラが横行していることを通して、セクハラ(あるいはハラスメント)の根深い構造を知った。それは拙著『ぼそぼそ声のフェミニズム』或いはその他拙稿でもたびたび触れている。傍聴に行くことが原告の力になることに少しでもつながれば、と思い東京地裁に行った。そしてその裁判傍聴直後に下記Twitterを投稿した。

(1)「原告の方とご縁あって本日、早稲田大学の元教授であり"文芸批評家"の渡部直己(敬称略)によるセクハラさらには早稲田大学の責任を問う裁判(東京地裁)の傍聴に行くが、渡部直己の答弁の酷さが予想を超えてどこから書いたらいいのか。裁判については下記サイトご参照ください。」

https://twitter.com/kuriryuofficial/status/1570389277347053572

(2)「答弁だけでなくなんだろう、被告の弁護人と意思疎通できてない感じとか。。。まとめて書きますので今しばらくお待ちを。。原告を心から応援します。」

https://twitter.com/kuriryuofficial/status/1570389854701367304

9月15日のこの日は午前10時からは原告の同級生の主尋問及び反対尋問。午後一時すぎからは原告の主尋問と反対尋問。そしてその後は被告の主尋問と反対尋問というスケジュールだった。傍聴には整理券も配られ、法廷はまずまずの人でいっぱいだった。

午前の同級生の証人は原告がいかに渡部から「特別扱い」をされていたかを証言した。「看過しない会」に書かれていたように「囲い込み」は第三者の目から見ても明らかだったという証言だ。

 午後からは原告の答弁と主尋問及び反対尋問だが、まずハラスメントを看過しない会に語られたような入試時からのおかしな対応や、他の教員に相談してもほとんど有効な手を打てなかったことなどには反対尋問ではほとんど触れられず、渡部の弁護人からは原告の来ている洋服についての質問など尋問そのものが二次加害でありかつ原告からは答えようのない質問も続いた。おまけに原告と渡部が顔を合わせないように衝立をしているにもかかわらず渡部と弁護人がゴソゴソと比較的大きい声でやりとりしているのがなんとも無神経に映った。正直その無神経さにおいて、法廷上でもハラスメントを行なっているように見えてならなかった。

また早稲田大学側の弁護人は、自分たちの責任をなるべく少なく見積もりたいがために「ハラスメント委員会」を知っていたのか知らないのか、ということばかりしつこく聞き、入試時の囲い込みなど早稲田大学にそれなりの責任がある部分についてはスルーしていた。そして驚くべきことに被告側の弁護人(渡部側の弁護人)と裁判官側がいつもどこかうっすら笑っているような気分の悪い対応をしていた。

さて、原告の答弁と尋問が終わり今度は被告渡部側の話となったのだが・・・これがすごかった(もちろん悪い意味で、である)。

まず裁判官の対応がとりわけ最初の段階では著しく渡部に好意的であった。渡部を裁判官が「先生」と呼びとても中立には思えなかった。

 しかし、渡部の答弁が始まると聴衆もドン引く発言が続いた。まず入試の際に原告の指導教官を誰が行うかという際に「誰も手が上がらなかったため」「自分が引き取ったのだ」という。入試の客観的な基準がはっきりしてないことを露呈してしまい、それを当然反対尋問(原告の弁護人)が問いただすがそれを早稲田の弁護人が止めようとするなど、正直法廷の体を成してない状態である。

いや、それだけではない。実は法廷内は「携帯電話がなったら退廷してもらう」と言われていた。しかし渡部の答弁と尋問の間、ある年配の男性の携帯が何度も何度も鳴っていたのに、裁判官からの注意がなかった。それなのにあまりの渡部の発言に傍聴席から失笑が出てきたときには、早稲田大学側の弁護人がものすごい勢いで抗議をした。そもそも原告の尋問の時は弁護人も裁判官も薄ら笑っている時があったのに、それには誰も注意をしていなかった。また3人裁判官が並んでいたのだが、そのうちの若手の裁判官はすでに書類提出した内容をほとんど読んでないのか?と思うような稚拙な質問を繰り出してきた・・・。

・・・と一事が万事こんな調子で、裁判劇という言葉があるがこれはなんの不条理劇なのかと目眩がしてくる。渡部被告は元よりこんな裁判官や反対側の弁護人と渡り合わねばならない原告に、改めて心からの応援を送りたい。

そのほか法廷に来ていた関係者のツイートをご紹介する(見落としがあったらすみません。以下五十音順)。

川口晴美@mizutori1

https://twitter.com/mizutori1/status/1571350432441847809

川口好美(練習生)@yosimikawaguchi

https://twitter.com/yosimikawaguchi/status/1570608377230946304

さ@saku_cakey

https://twitter.com/saku_cakey/status/1570425041397116933

大学のハラスメントを看過しない会@dontoverlookha1

https://twitter.com/dontoverlookha1/status/1570596899266367488




2022年3月26日土曜日

「人民新聞社への裁判提訴についての見解」を読みました


 「人民新聞社への裁判提訴についての見解」

https://note.com/jinminshinbun/n/n0973f52a704c?fbclid=IwAR1frE4qc99kQml8y9ZRD0FGaGnWDNCs21AF9OdFIhdJoY9npoyHGxVeqoQ

を読みました。

私自身が連載を降りた最大の理由としては、このセクハラ・パワハラ事件を通して見えてきた人民新聞内の個人と組織の曖昧さが原因で、人民新聞に対する信頼性が揺らいでしまったところにありますが、それがこのnoteでも垣間見えます。この件について人民新聞とのやりとりをしている中で人民新聞の組織としての言葉なのか、個人の一職員の言葉なのかがすごく分かりづらいのが怖いと思ったのですが、それが垣間見える点として、noteから引用したいと思います。

「原告がメンズエステの退職を決意した要因は、①原告が従業員Aに弾圧リスクについて相談したことに始まり、②弁護士や活動仲間との話、③11/25の昼の人民新聞での話し合い、④同日夜の別の集まり、などの経緯と、さまざまな個人・団体の関与の中で生み出されたものです。それを、全て人民新聞の責任にされ、諸要求が行われています。」

という部分の

「さまざまな個人・団体の関与の中で生み出されたものです。それを、全て人民新聞の責任とされ」

という点で、何が一個人の意思で何が人民新聞の意思かが、私が以前話を伺い、やりとりした限りではかなり不透明でした。これでは私との連載で何か問題があったときに、人民新聞の問題として取るべき問題を個人化されたりしたら怖い、と考えたからです。

当然人民新聞に真摯にこのセクハラ、パワハラを起こした出来事に向き合ってほしいと思って連載を降りたわけですが、その向きあう人民新聞の主体とはなんなのだろう?と改めて思うのです。

さらに

「要求2「自己批判文の紙面掲載」=研修を受講し、内省を深めることで作り上げていくものだと考えています。また、掲載の形態や、内容に異議があれば話し合いを続けます。」

とありますが、話し合いが破綻して裁判になってる中で今後紙面作りなどどのように話し合えるのかはかなり困難なようには見えます。

私自身は裁判の訴訟金額などについてはこのnoteを見るまでは一切知りませんので、その訴訟金額について私は公に触れることは一切致しません。それこそ残念な話ですが、少なくとも今の時点では訴訟の中で係争案件として原告と被告のあいだでやり取りするしかない時点にまで来てしまったのだろうと思います。

ただ、人民新聞の組織的な主体と個人の主体をどう切り分けるのかと言う問題と、話し合いがかなり厳しいと言う問題は、このセクハラ・パワハラの事件で私から見えてきた点ではあるので、ここに改めてその問題を提起したいと思います。

そしてそもそもなぜこのようなセクハラ・パワハラの事件が起きたのか、という根本的な視点がこの人民新聞のnoteからは見えない点は私としては非常に残念であり、かつ運動団体あるあるの既視感でもあり、私としては距離を置かざるを得なかったと思う点ではあります。重ねて申し上げますが非常に残念なことです。

以上です。


2022年3月22日火曜日

社会運動団体で発生した性暴力への対応をめぐる対話(小林美穂子・稲葉剛)を読んで

 社会運動団体で発生した性暴力への対応をめぐる対話(小林美穂子・稲葉剛)

を読んで以下、感想を書き記したいと思います。最初はFBに掲載したものを、改めてブログに掲載し直しました。お読みいただければ幸いです。

社会運動内における性暴力、種々のハラスメントにはさらに言いたいことは山ほどあって、それを本にしたいと言ってもなかなかいわゆる商業誌の本にならないので(出版社からは断られることもアリ)、もう文学フリマとかで売る自費出版本にしようかなと思っています。

日本社会の背景、つまり私が"ぼそぼそ声〜"で語ったように「社会運動も社会の内側にある」という問題と同時に「社会運動特有の問題」も抱えていると思うのですよね。

それこそこのシェアした対話が、なぜ「小林さんと稲葉さん」で可能でかつ注目されるのかということ含め(このお二人の関係性をどうこうここで言いたいわけではありません)、運動内の「公私」の境目の問題なども考える必要があります。ぶっちゃけて言えば運動内で誰かと誰かが付き合うことはままあり、それを咎め立てする気は私は全くないのですが、しかし同時にいわば仕事仲間が家族でもあると言った「公私」の境の曖昧さが、仲間内の庇い立てとか、問題が明らかにできない一因につながる場合もあります。私自身は恋愛のパワーが組織の維持に利用されている、という話を"ぼそぼそ声〜"で語りました。

しかしこれはそれこそ今の日本のトップが血族ばかりで繋がっていることと(安倍晋三とか麻生太郎を見ると明らかで、麻生太郎は皇室とも血縁関係ですよね)それこそ大きなレベルでも小さなレベルでも"相似"のようにおきていることなのでしょうか。もちろん量的な問題では圧倒的に麻生太郎とかの問題の方が大きいわけですが、しかし問題は小さいレベルでも通底しているというべきなのでしょう。この辺りの「公私」について考えることは難しいですが、必要なのかもしれません(付き合うなって意味ではなく・・・)。

あと、最後に私が語るより、やっぱり稲葉さんが語る方がインパクトが強い(ように思える)のは、人望の差なのか、キャリアの差なのか、あるいはジェンダーの差なのか・・・とモヤモヤしているということを、最後に書き残したいと思います。、私の本を参考文献にしてくださったとのこと、感謝の気持ちと、率直な気持ちは同時に存在し、それもともに書き記します。