2020年11月8日日曜日

「被害と加害のフェミニズム、のなかで--栗田隆子氏のTwitterから考える」を読み感じたこと

 まず、このような私に対する「名指し」の批判がnoteに記載されておりました。これを書いた人(人たち)は「friends」とあり、私にはまずどなたかがわからない状況にあります。

https://note.com/heyheyfriends/n/nc7756d65a346

そして、この方達が批判している私のツイートは下記になります。https://twitter.com/kuriryuofficial/status/1303284634638102529


上記の私の発言に対して


「この発言にはうなづくことはできません。憶測に基づく無責任な発言」という批判でした。とありました。そのことについて私はいくつか意見を述べたいと思います。

さてそれでは本題に入ります。

この「憶測」というところがよくわかりません。

「”起きていること“を書く上で何かすごい大事なことを表している気がする”」のこの“気がする”を憶測と書いていると私は読み取りましたが、私は、ハラスメントも絡む(少なくともノーリミットソウルの話はハラスメント問題と言って良いでしょう)しかも複数の団体が絡み合って起きた出来事を書くことが「複雑になる」ことは大事なことを表している気がする、という意味です。つまりそれはこの諸問題に対する事実関係の「憶測」ではなく、「事実を書く」と「言葉」は「複雑になっていくことが大事」な可能性があるという意味です。つまり事実を書こうとする「言葉」に対する私自身の感想であり感覚であり直観だからです。それは事実関係を「憶測する」話とは違うとお伝えします。

そしてもう一つこれを「憶測」と取る問題と絡み「無責任」という言葉についても言及しなければなりません。

それこそTwitterという世界中に広がるツールで名前を出して書いたことには一定の責任を感じて書いています。そして私自身運動内のハラスメントや暴力の問題について、考えている身としてのこれは発言です。まずその時点で私は責任を感じているからこそ上記の発言となったと言わざるを得ません。

「私たちは判断に足る材料を出した」とfriends氏方々のブログには書かれています。これを書いた方々がそう考えてるのは分かりました。しかしfriends氏方々のブログと並びに反五輪の会の声明を読んだ私が、反五輪の答弁の分かりづらさから考えたい、善意であっても二次被害は起こり得ると、自分の名を出して私が語ることの何が「無責任」なのかが私にはわかりません。

正直興味深いのは私の判断を「間違い」とは書かず「無責任」と書くところです。friends氏方々ご自身たちは判断に足る材料を出したと認識されているのはわかりました。それはでもあくまでfriends氏方々の見解ですね。それに対して私がTwitter上で上記の発言をしたことをfriends氏が「間違い」と書かず「無責任」と書かれているところが興味深いです。

判断に足る材料を出したのに、それを判断しないのは「間違いだ」ならわかりますが、「無責任」という言葉をはどういう意味か。深く考えてみたいです。

そもそも「憶測」の解釈も私が使ったものとはズレていますが、その私の責任を問う根拠は自分たちが「判断に足る材料を出した」からだ、というのはつまり自分たちの意見が判断に足るものだと語っておられるのはご自身たちなわけですよね。

「判断に足る材料を出した」とご自身方で言い切っている文章に違和感を覚えるのは私だけでしょうか。判断をするかしないかという、そもそも読み手に任せるべきものである判断をコントロールする意図を感じるのは私だけでしょうか。

あと最後に。反五輪の会の見解は下記です。いくつもの団体、さらにノーリミットソウルでのハラスメント発言の問題なども関連してます。複雑さというわたしの言葉の意味を理解されたい方はこちらをどうぞお読みください。

https://medium.com/@hangorin2020/2018年11月上映会以来起こっている件について-私たちの見解-9d383fceb57a








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