2020年12月22日火曜日

『女性学年報』41号の中の遠山日出也さんの「日本の左派とフェミニストの中にある新自由主義認識の問題点——家族賃金・能力主義・個人単位化などの概念の多義性と資本主義認識を中心に」を読んで

 『女性学年報』41号の中の遠山日出也さんの「日本の左派とフェミニストの中にある新自由主義認識の問題点——家族賃金・能力主義・個人単位化などの概念の多義性と資本主義認識を中心に」論文、必読です!

https://www.jstage.jst.go.jp/.../41/0/41_23/_pdf/-char/ja

多くの人に読んでほしいと思います。ちなみに(fbでは「友人」でもある)落合恵美子さんの『21世紀家族へ第4版 家族の戦後体制の見方・超えかた』が引用され、その中に私が登場する部分があり、そこを遠山さんが用いながら論を展開されている部分があります。

私は『21世紀家族〜』を謹呈いただいていましたし、ここの箇所も読んでいたのですが、遠山さんの論に触発され、また本を謹呈されてからさらに確信を持った部分を含めて、改めて私自身もこの部分について触れたいと思います。ちなみに遠山さんが落合さんと私について書かれていることは下記となります。

「落合は、自らも関わった 2010 年のあるシンポジウムが、栗田隆子ら貧困運動関係の活動家に抗議されたことについて述べた際、女性に関する政策実現のためにはフェミニスト官僚、シ?ェンダー研究者、 女性運動家、政治家などの異なった立場の女性たちが連携することが必要なのに、「『エリート女性』に 対する冷ややかな目」がそれを妨げていると批判している。その際、落合は、かつて「『雇用平等法反 対』という運動」があったが、「今にして考えると反対なんてとんでもなかった」と言う。なぜなら、 反対した女性たちは、均等法は「労働基準法の女性保護撤廃とセット」だから「労働者の権利を犠牲に して、エリート女性に都合のよい法律を作ろうとしている」と批判したが、均等法は「現在から見れ ば、すべての働く女性にとって(......)無ければ困る法律だった」からだと述べる[落合 2019:293-294]。 しかし、まず、当時の女性運動のほとんどは雇用平等法の制定を要求しており、反対したのは、あくま でも「保護抜き平等」や「骨抜き『平等法』」に対してだった。たしかに落合が述べたような理由から 雇用平等法に反対した運動もあり(「主婦戦線」など)、私もそうした運動は一面的だったと思うが、それらの運動についても、女性間の階層差の認識などの点で当時の女性運動の弱点を突いていた面を主張する研究もあり[村上 2012]、そうした点についての検討は必要だろう。また、現在でも、非正規雇用の女性など、均等法の恩恵をほとんど受けていない「働く女性」も少なくない。実践的にも、落合の 議論では、階層間の連携について、非エリート女性やマイノリティ女性からエリート女性へという方向が強調されすぎるように思う。」 

上記に関連する落合さんの『21世紀家族』で箇所は下記のようになります。

「女性に関する政策を実現するには『ビロードの三角形』もしくは『ビロードの四角形』が働くことが重要だといわれます。フェミニスト官僚。。ジェンダー研究者、女性運動家、それに政治家が連携して法改正などに成功するケースが多いというヨーロッパやアメリカの経験から生まれた言葉だそうです。別にこの三者ないし四者に限らず、企業の人たち、メディア関係者などの役割も重要ですし、男性が入ってもいいと思いますが、異なる視点や権限を持った異分野の人たちが連携するのは大きなことをするために重要です。日本ではこの連携が下手なのが問題ではないかと私は思っています。「エリート女性」に対する冷ややかな目がこれと関係していると思います』という部分です。

そしてその前のいくつかのパラグラフでは私がパネリストとして参加した2010年の日本学術会議社会学委員会ジェンダー研究分科会主催の「ジェンダーから展望する新しい社会の仕組み—女性の貧困・雇用・年金」で私がパフォーマンスと意見を述べたことについて記載されています。こちらは社会運動界隈でも賛否を招いたのですが、この出来事は、拙著「ぼそぼそ声のフェミニズム」にも書かれてあり、このイベントをめぐってパネリストと主催者側の意見が2冊合わせて読めばよりわかりやすくなるかと思います。

さて落合さんは私の発した意見の中で

「家族や資本や国家に包摂されたくない」ということ、また「自分たちはなってはいけない存在なのか」という問題提起が突き刺さったとあります。そしてその私からの問題提起を受けながら、前述したような(学者への批判は受け入れる必要があると考えつつも)「エリートへ女性に対する冷ややかな目線」は女性の連携を妨げるものと書かれています。

さて、しかし「エリートへ女性に対する(エリートじゃない女性の)冷ややかな目線」は女性の連携を妨げるものなのかは少々考えたいところです。

まず一つは、それであればブラック・フェミニズムやその他「異性愛白人中産階級女性」が中心であったフェミニズムの批判という歴史をどう受け止めているのか、という話をせざるを得なくなるでしょう。「異なる視点や権限を持った異分野の人たち」の中に階級が異なり、あるいはセクシュアリティが異なり、あるいは人種が異なり、という点はどこまで考慮されているのでしょうか?あるいは「異なる視点や権限を持った異分野の人たち」が対等に話し合いができるためには、「批判」というプロセスが飛ばされたとは思えません。それはオードリー・ロードやベル・フックスやそのほかを読めば明らかだと思います。

また、社会運動の中で「インターセクショナリティ」という概念が注目を受け続けています。差別というものは単独のイシューとして現れるのではなく、黒人女性である、外国にルーツを持つ女性、部落の女性、そのほか複数の立場、属性、位相の中でこそ差別はより鮮烈に引き裂かれるものとして現れることに焦点が当たっています(逆に利点が重なることでエリート性が強化されもします)。もちろんそれはかつてからあったことですが、いま新自由主義の社会においては、その交差性の中でこそより差別は鮮烈になされていると言えるでしょう。そのことに異議申し立てたことに「エリート女性への冷ややかな視線」と書くのは少々現状の差別問題への視点が平板ではないかと思われます。

また、それこそ今年の11月に「99%のためのフェミニズム宣言」という本が邦訳されましたが、こちらはエリート女性への冷ややかな視線どころではなく、シェリル・サンドバーグの「リーン・イン」への痛烈な批判から始まります。

男性並みの平等、エリートの立場に「リーン・イン(前のめり)」になることがフェミニズムなのか?男性の権力、人殺しをする平等に女が加わりたいのか、という「リーン・イン」的は発想への痛烈な批判です。アメリカの能力主義と日本の能力主義はまた違いがあるので、この本を日本に簡単に落とし込めるかどうかという問題はありますが、少なくともここで語られる「アメリカやヨーロッパ」は落合さんの語られる「アメリカやヨーロッパ」とは随分異なるものだ、といわざるを得ません。またリーン・インを痛烈に批判している人が、ナンシー・フレイザーという「エリート」の「学者」であるという事実をこの『ビロードの三角形』もしくは『ビロードの四角形』を主張する人々はどのように捉えているのか、非常に気になります。

私自身は、ちなみにじゃあ日本のフェミニズムはじめ社会運動がなぜ連携が下手なのかを考えるに「運動の中の<リーダー>学者の中の<より権限を握っている人>が話を聞かず、あるいは理解できず、自分の都合の良いように動く<駒>を無意識で求めている」といった人間関係により、さまざまな「ハラスメント」が横行していること、これがフェミニズムを含めた日本の運動が停滞している大きな要因の一つであると私は考えています。最近社会運動の中の性暴力やハラスメントの問題を被害を受けた立場の人が告発をし、ようやく「隠されていた」ことが表面に現れました(私は無理に当事者に告発をけしかけたくはありませんが)。また、社会運動団体と一口に言いましたが、ジャンルや考え方さえ違う団体でも、ハラスメントは多発しています。カトリック教会の「聖職者」による性暴力・性虐待が話題になっていますが、カトリック教会のような「保守」でも労働運動などの「左翼」でもそして「フェミニズム」でも同様に起きているこのことこそ「社会的構造」が生み出したものと考えるのが妥当ではないでしょうか。

そこには能力主義(何を能力と見做すかを含め)や競争をしいられること、世間の評判を上げなければ存続できない等々、ハラスメントを起こす背景を考える必要があるでしょう。そしてそこにもまた新自由主義や資本主義の問題に接続していく「根」がある、と改めて述べていきたいと考えています。


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