2025年8月14日木曜日

大椿さんを応援するということ(中)

 728日当日、参議院会館の地下の会議室は110人で満室になる部屋なのだが、立ち見も出るような盛況ぶりだった。私は机の前にある椅子ではなく、部屋の壁に沿って置いてある椅子に座ったが、私の目の前にはラサール石井現議員が座っていた。

 

I(アイ)女性会議のオオツカさんという方のご挨拶から始まった。労働組合とi女性会議が合体して大椿さんの応援団をしていたということ、力が足りなくて申し訳ないという挨拶が続いた。私は応援団の中心をそこで初めて知った。この方達の経験や歴史を知りつつもさらに選挙に通るには違う人との関わりと必要になるのではないかとも思った。

 そこからはさまざまな人が挨拶をしていた。小池晃議員(共産党)や石川大我氏(立憲民主)、打越さくら氏(立憲民主)など他党の議員(元議員)含む人々が挨拶していことが非常に印象的だった。

 党派を超えた協力、連帯というものはこの場所で、大椿ゆうこさんを軸にして微かながらに生まれてると思った。しかしこれを票につなげるにはどうしたらいいのかと考えた。

大椿ゆうこさん支持の言葉が飛び交う中で、私の目の前にいたラサール石井氏がマイクを持った。

大椿さんが当選せず残念という中で居心地があまり良くなさそうな感じではあったが、彼から貴重な話を聞くことができた。

 ラサール氏が立候補を表明したのは選挙期間のギリギリ前くらいのタイミングだった。私が知ったのは630でその際にfacebook

えええー!ラサール石井が社民党から立候補ってマジ!?ジェンダー視点は大丈夫か!?とまず心配になった。。大椿さんを応援するスタンスを変える気はないけれども、しかし。

と書いたほどである。

その理由として、彼が舞台に出ており、その舞台期間は立候補するという話はしたくなかったためであったという。そのためごく一部の人しか知らない極秘事項だったため、大椿さんもおそらく前々から知っていたはなしではなかったろうと、大椿さんに申し訳なさそうではあった。

大椿さんは、ラサール氏に思うところはあったかもしれない。だけど私のように不安に感じる投票者に対しても、誰に対しても国会でやりたいことがたくさんある。議員としての仕事をしたいとこの日も語り続けてた。その気持ちいい態度もまた大椿さんへの好ましさが上がった理由でもあった。

そして大椿ゆうこさんがもう一つ何回も口にしていたのは社民党に入って欲しいということばである。

党に入るとは。

党とはなんなのか。

それを次に考えたい。


2025年8月8日金曜日

大椿さんを応援するということ(前半)

 

 大椿ゆうこさんの話を聞く会の感想、報告が遅くなり申し訳ない。

 

その前に。

大椿さんとの出会いについて話したい。

というのも、私もいい年になりますよう、過去のことを話すことのできる立場となったと思うからだ。いまの20-30代が知らない時代を伝えることも一つの運動だとも思い、語りうることは語るなかで、大椿さんと私との関わりもすでに、若い世代にとっては知らない過去の時代の出来事と大きく関わっていると思う。

…当時は「大椿裕子」さんとして知っていたのだが…大椿ゆうこさんの名前を知ったのは2010年ごろだと思う。

彼女が関西学院大学の学生のコーディネーターを「雇い止め」されたことに対して雇い止め撤回を求めて大学側とたたかうというニュースを聞いたのだ。

当時は「フリーター」という言葉から若年層の貧困、あるいはロスジェネ、氷河期世代という言葉が出始め、リーマンショックが起き、「派遣村」が生まれた。

そうそう、この「派遣村」について知らない人がもはや多いと思うので説明したい。

2008年リーマンショックの煽りを受けて解雇〔雇い止め含む〕が日本でも増大した。さらには製造業派遣労働者の相当数が企業の寮に住んでいたため、仕事を失ったことにより住居も失った人々がいた。

そのため2008年から09年の年末年始にかけて当時NPO法人もやいの事務局長であった湯浅誠氏を派遣村の“村長“としてさまざまなNPOや労組が結集して日比谷公園で相談ブースを開いたり、寝る場所の提供をした。

その後当時の厚生労働大臣である菅直人氏が厚労省の講堂を開放し、相談ブースや寝床を提供した。派遣村とはその一連の流れを表すものといっていい。

さて、そのような若年層(当時大椿さんも私もまだ30代だったのだ)の労働・貧困問題がさわがれる中で、大椿ゆうこさんの話を聞いたのである。

 派遣労働者もそうだが、契約で「2年」と書かれていれば大概がその年数で容赦なく切られる。私含む多くの人はその契約に納得できなくとも多くの人は従っていたのだ。だが、大椿さんは「仕事は存在しているのに、人を切るのはおかしい」と訴えていた。本来ならば実に当たり前のことをいっているのに、それを企業に伝えるのは勇気のいる行為となってしまっていた。

声を上げる、は社会運動の基礎の基礎だと思う。それをできるのが大椿さんなのだというのがその話を聞いた時の感想だ。

 関西学院大学とのたたかいの報告会に私は呼ばれて、彼女のたたかいについてはなしをきいた。彼女はこのたたかいで雇い止め撤回を勝ち取ることはできず、和解もしなかった。その時に彼女は自分は関西学院大学の雇い止めについてどこでも詳細を語りうる立場なのだ”(大意)と語っていた記憶がある。いわゆる和解条項などで縛られる立場ではないこと、自分の時は負けても次に勝つのが労働運動という言葉もその時に聞いた記憶がある

その後彼女は教育労組の専従として働いた。私はその頃ある女性労働に関するNO団体の運営委員、あるいは代表になっていた。大椿さんは働いている人を使い捨てるような企業や社会とたたかっていた。他方で私は働けない人、企業社会についていけない人を軸にものを考え、動いていた。とはいえ我々のこの取り組みを真逆とは言い難いと思った。なぜなら使い捨てられることでメンタルを病んで働けない人を知ってるし、あるいはメンタルを病んで働けないとみなされていても、働きたい気持ちが全くないとも限らない。

そしてある種の経営者の側から見れば、どちらも結局は切り捨ててる存在でありどうでもいいあるいは邪魔な存在なのである。

 そして私の方は大椿さんの活動をずっと注目してきた。とはいえ、なにせ働けないがアイデンティティのようなところがある。そもそも選挙運動の、あの、ワーッ!!と高まる感じに体力気力ともども追いつかないところがある。応援演説などは頼まれたらもちろん心から行うが、それでも体力気力乏しい私のようなものが応援してよろしいでしょうかみたいな気持ちを抱きつつ折々応援してきたという調子であったのである。

 

しかし、それでよかったのか。

それが今回の大椿さんの選挙結果を受けてのわたしの思いなのである(続く)