私は、10月1日の午前中、宝塚大劇場にて宙組の「風と共に去りぬ」を見ながら不覚にも泣いてしまっていた。レット・バトラーの「情婦」、「商売女」と呼ばれるベル・ワットリングが南北戦争でかかる軍資金を寄付しようと、お金を手渡そうとするのだが「あんな女の金は汚い」といって受け取ってもらえない。その心ない扱いに対して「商売女だって、南部を思う気持ちは同じなのに、私だって人間なんだ」と叫ぶシーンで、思わずうるっときたのだ。
その一幕が終わった後、私に宝塚の面白さを教えてくれたSWEETLYの御苑生さんに劇場でお会いした。たまたま同じ日に観劇に行く事がわかり、幕間に会おうという話となったのだ。そこで、この本を渡してくれたのだ。
なんという…タイミング!
Sweetlyとは、「Sex Workers! Encourage, Empower, Trust and Love Yourselves! スウィートリー」という1995年にセックスワーカーの自助グループとして発足した団体だ。私は昨年に、メンバーである御苑生さんと知り合うとともにその存在をはじめて知った。
私はこの本をめくるたびに、あのベルのセリフと、宝塚大劇場を思い出すだろう。というのも、ベルのセリフの「私だって人間なんだ」というセリフは、この本の主張につながるコアなものだったから。そして、この本について御苑生さんと語った場所が「宝塚大劇場」だったからだ。
それにしてもこの本の構成はよく考えられているなあとおもった。ピンク色の側の表紙と、緑色の側の表紙との両方が「表紙」となっている。ピンク色の表紙を開くと「支援に役立つ情報とポイント」緑色の表紙を開くとセックスワーカー当事者がファシリテーターとなる「ワークショップマニュアル」となっている。情報と知識、そして実際に出会って学ぶ事。この両方がそろってこそ、本当にセックスワークについて「知り」、セックスワーカーに「出会う」ことが可能であると本の作りそのものが示唆しているようだ。セックスワーカーが一方的に視線に晒される対象であるようなかたちで、セックスワークをテーマとしている本や、一方的に聞き取られる側にセックスワーカーをおいた上で「売春について調査しました」という本はかなりあるが、セックスワーカーが中心となって行うワークショップが紹介されている本は極めて少ない。セックスワークに関する本を書くならば,それこそこの本を読んで、ワークショップなども参加し、相談の受け方(つまり話の聞き方)を学ぶことからはじめた方がいいのではと思いもした。
この本ではセックスワーカーに対するNGワードについて語られているが、それは「偏見が繋がりを阻む」からだ。よく「あなたに不快をあたえてすみません」的な言い回しがあるが、不快を与えたからいい悪いではなく、どんな言葉が、考え方がセックスワーカーと自分を引きはがすかを考えた方が良いという事だ。逆に言えば、セックスワーカーと自分を引きはがすということは、どういう意味があるのか、そういうことをNG
ワードから考える事が大事なはずだ。
この本は無料配布されるそうですが、次の冊子を発行するためのカンパは大歓迎との事。私もいくばくかの寄付と同時に、宣伝をしたい。sweetly のメールアドレスは sweetly.cafe@gmail.com
ここから少し私語りになるのをお許しいただきたい。
私が女性の労働問題、貧困問題について語る際に、セックスワークのことについて質問されることがある。それこそ女の人はセックスワークをするからホームレスにならないのではないか、などという人もいる。言外で「女は売るものがあるからいい」とでもいいたげな質問だった。そしてたいていそういう質問をする人は男性で、私はそういう質問をされるたびにイライラした。女の人の貧困とその対策というときに、ステレオタイプのようにセックスワーク(彼らは売春という言葉を使うが)について語るのだが、それは本当に女性を「性」の領域のみに隙あらば縛り付けるような、そういう印象を受けたからだ。その視点は当然セックスワークのことを真剣に考えているようにも見えなかった。それこそがスーパーに行ったり、宝塚を見に行ったり、そういう「日常」のなかに、セックスワーカーが生きていると、どこかで認めていないように思えたからだ。
そういう観点に抗うために、私自身も女性の労働、貧困問題について語るときに、いわゆる性からは遠い話をあえてするようにした。私自身も妻でもなければ、愛人でもない、いわゆる男性との性的な関わりからは遠い立場の女が非正規労働でどう生きたらいいのかという話をしたのは、私の今思えば未熟でありつつも、いわば「性」的な何かを勝手に期待する視線に「乗らない」挑戦だったのである。
しかし女を性の領域のみに閉じ込めるような視点にいらいらし、その視点に抗いたいとき、自分が何かちゃんと整理出来てなければ、ともすれば、セックスワークをしている女性に対し、そのいらいらをぶつけてしまうのではないか・・・という恐れもあった。あと、それこそセックスワークについて、自分がセックスワークに従事していないのに勝手に語りださないようにしなければという恐れもあった。逆にここまで「恐れて」いることそのものが偏見というものなのだとおぼろげに感じざるを得なかった。
以前、セックスワークを経験しており,現在看護師をされている鈴木水南子さんと、フリーターズフリーで企画した対談で話をしたときに(対談は「フェミニズムは誰のもの」に収録している)セックスワークではなく、いわゆる堅気と呼ばれる仕事に戻れといわれたが、堅気の仕事もそれこそ危険だったり、汚かったり、キツく、しかも人権が守られていると言えない事も多いと、彼女は語っていた。
堅気に戻れと語る人たちにとってのセックスワークの危険さとはいったい何なのか、と彼女の話を聞きながら思った。それこそ堅気と呼ばれる仕事の危険とセックスワークの危険とはどこが共通で、どこが違うのか、そういう整理も必要だと思いながら,私の「性の領域だけに閉じ込められたくない」という怯えが、この整理を行う事に躊躇いを覚えさせていた。ただ堅気に戻れといっても、履歴書にセックスワークの仕事が書けない現状で、簡単に戻れというのもあまりに無責任だ、ということはわかってきた。
ただ、そもそも私はセックスワークどころか、その手前の「セックス」部分に向き合う事が出来ないほど怯えていたのだった。
しかしながら、「性的」とはみなされない仕事であっても、それこそ立場が低い事でつけ込まれてセクハラを受けたり、また運動のなかでさえも自分が性的に嫌な思いをしたり、性というものと向き合わざるを得ない・・・向き合いたい・・・と遅ればせながら思うようになった。本当にそれは亀の歩み以上に遅く、数年がかりといっていい歩みだったし、今も歩みだしたいと思ってはいても、歩んでいるのかと思うと自信がないというていたらくだ。
そんななかでこの本に出会った。
私自身、とらわれがいくつもある。そしてセックスワークの当事者や関わってきた支援者からみたら、呆れるほどとんちんかんなこともあるかもしれない。しかし、それこそ女性の労働問題、貧困問題を、捨象して認識しないためにも、この本を読むところから私はスタートしたいと思う。
まずこの本が女性の労働や貧困問題、さらにセクシュアリティ・安心や安全とはなにか、公衆衛生等々・・・に関心がある人にはぜひ手に取って欲しいと思う。そして、自分のなかの怯えに向き合い、ゆずれないものも整理しながら、セックスワーカーとの関係をつくるなかで考えかたの違いを尊重しあえる一歩になればと思う。