2020年11月30日月曜日

「パートで働きたくなる誘惑」

 「パートで働きたくなる誘惑」っていうのが最近の私にはあるのに気がついた。

30代の頃は求人誌見るのも嫌だったのにいつの間にか派遣求人サイトやパート求人サイトを見ている私・・・でも、今またパートで働くと鬱も悪化する危険もあるし、鬱の悪化によって本を書けなくなる恐れもある。そもそもコロナで求人も少ない。そして何よりもう派遣の仕事はいつクビを切られるかわからず、50近い私において雇われる可能性もほぼ、ない。それこそ今は、障害年金でお金もなんとかなっていて、イベントの企画もあって、ぜひ本を書いてください!と言われてもいるのにこの誘惑は一体なんだ?と思うと、一つは労働の「現場感」が薄れるのではないか、という怖さ。でもそれは根深くなくてもう一つは、パート労働せず本を書く、ものを語るということで、「労働の現場にいる」という自分の中の言い訳が通用しないことが怖いのだ。もう20年近くダラダラとパート労働や派遣労働をやって(そして鬱になって続けられなくなったり、クビになったりしながら)、もういいだろう、次の段階にいっても良いだろうと思うのに、奇妙にそれが怖いという矛盾!昔は働くのが怖かったが、今はいわば「パートという足場なくして、ただ言葉一本で勝負することの怖さ」というべきか。でもおそらく今の私にはパート労働しながらではできないことを書こうともしているので(調査しないといけないことも多い)、この「パートしたい誘惑」を避けないといけない。こうやって書くとこの誘惑、実に取るに足らない感がある。本当に人間思いもよらないことが自分の外側にも自分の内側にも起こるものだ。


2020年11月15日日曜日

千葉県・佐倉市にある「国立歴史民族博物館」に行ってきました

 昨日11月14日に、知り合いのAさんとともに国立歴史民俗博物館に行きました。

「私と行くと無料だよ」と誘ったのですが、本当に「連れ添い」的な状態に。そもそも東京駅から一日一回しか出ないバス乗り場がわからなかったり、「性差(ジェンダー)の日本史」展に入るには予約のメールのチェックがあるのですが、メールが一瞬見つからず(検索したら出てきた)など、いくつか焦るシーンはありましたが、ともかくも無事に見学できました。


さて。感想ですが。

(1)「性差の日本史」展は「え?そこで終わり」感はある。だけど図録が凄いので、ぜひ図録は入手!

(2)あと、「性差の日本史」展会場は一回入って出口を出てしまうと、もう一度会場に入ることができないので、とにかく一回でじっくり見るように!

(3)常設展がいい!

の3点です。

(1)については、女性の主に社会参画というか労働の話というか、「ジェンダー」となると広いからどうまとめるかというのは難しいかな、という印象があります。

またいわゆる性労働・生産業については。「遊女」(中世くらいまで):〜「遊郭」(江戸時代まで)」〜「国営管理(赤線・青線等)制度」(明治から戦後)と言った流れは掴めるのですが、植民地に絡むところとかは(いわゆる「慰安婦」と呼ばれた人たちのこと)はあまり触れていません。あと、現代の「風俗業」と呼ばれる性産業・性労働については触れられていません。「金銭を介して性サービスを提供」ということはずっと古くからあったと思うのですが、やっぱり時代においてかなり背景や制度は違うという事実を踏まえるのは大事なことかと思います・・・。

(2)これは一回さーっと見てもう一回じっくり見たい!という方は何卒ご注意!あと結構土日は混んでいるので、できうれば平日がいいのかもしれないです・・・。

(3)あと本日強調したいのはここ!日本史に精通している方なら良いのかもしれませんが、日本史あんまり詳しくないんだよーという方はこの常設展をじっくり見ればかなり日本史が鮮明になるのでは、と思います。

私はたまたま「性差の日本史」会場に近い「現代(1930年代〜)」の展示場に入ったら、これが素晴らしくて。国防婦人会が実際使ってたタスキとか!植民地にしていたサイパンで使っていた日本語の教科書とか!しっかり日本による植民地支配時代も展示されています。

ちなみにこの展示場はこの日は空いてたのですが、父子(子は10歳未満くらい)と思しき二人が私の近くで会話をしていたのですが

「外国とは戦争をするものなんだよね?」(子ども)

「いや、外国だからって戦争する必要はないよ」(父)

「えー。外国の人と仲良くなれるの?」(子ども)

「仲良くなれるよ。外国だからって戦争をする必要ないし、個々人は仲良くなれるよ。」(父)

という会話が・・・。子どもの方よ、外国の人とは仲良くなれないというのはどんな情報からそう思ったのかしらと思いつつ、お父さんにエールを心の中でそっと送りました。

しかし佐倉は東京や埼玉からは遠いのが難点(と言っても千葉も広いので千葉県に住んでいても佐倉が近いとは限らない)。東京駅から高速に乗って1時間40分くらいはかかり、しかも博物館から東京駅までのバスは15時発の一本しかないので、常設展をくまなく見たい方は、いっそ佐倉に前泊すると良さそうです・・・。


2020年11月8日日曜日

「被害と加害のフェミニズム、のなかで--栗田隆子氏のTwitterから考える」を読み感じたこと

 まず、このような私に対する「名指し」の批判がnoteに記載されておりました。これを書いた人(人たち)は「friends」とあり、私にはまずどなたかがわからない状況にあります。

https://note.com/heyheyfriends/n/nc7756d65a346

そして、この方達が批判している私のツイートは下記になります。https://twitter.com/kuriryuofficial/status/1303284634638102529


上記の私の発言に対して


「この発言にはうなづくことはできません。憶測に基づく無責任な発言」という批判でした。とありました。そのことについて私はいくつか意見を述べたいと思います。

さてそれでは本題に入ります。

この「憶測」というところがよくわかりません。

「”起きていること“を書く上で何かすごい大事なことを表している気がする”」のこの“気がする”を憶測と書いていると私は読み取りましたが、私は、ハラスメントも絡む(少なくともノーリミットソウルの話はハラスメント問題と言って良いでしょう)しかも複数の団体が絡み合って起きた出来事を書くことが「複雑になる」ことは大事なことを表している気がする、という意味です。つまりそれはこの諸問題に対する事実関係の「憶測」ではなく、「事実を書く」と「言葉」は「複雑になっていくことが大事」な可能性があるという意味です。つまり事実を書こうとする「言葉」に対する私自身の感想であり感覚であり直観だからです。それは事実関係を「憶測する」話とは違うとお伝えします。

そしてもう一つこれを「憶測」と取る問題と絡み「無責任」という言葉についても言及しなければなりません。

それこそTwitterという世界中に広がるツールで名前を出して書いたことには一定の責任を感じて書いています。そして私自身運動内のハラスメントや暴力の問題について、考えている身としてのこれは発言です。まずその時点で私は責任を感じているからこそ上記の発言となったと言わざるを得ません。

「私たちは判断に足る材料を出した」とfriends氏方々のブログには書かれています。これを書いた方々がそう考えてるのは分かりました。しかしfriends氏方々のブログと並びに反五輪の会の声明を読んだ私が、反五輪の答弁の分かりづらさから考えたい、善意であっても二次被害は起こり得ると、自分の名を出して私が語ることの何が「無責任」なのかが私にはわかりません。

正直興味深いのは私の判断を「間違い」とは書かず「無責任」と書くところです。friends氏方々ご自身たちは判断に足る材料を出したと認識されているのはわかりました。それはでもあくまでfriends氏方々の見解ですね。それに対して私がTwitter上で上記の発言をしたことをfriends氏が「間違い」と書かず「無責任」と書かれているところが興味深いです。

判断に足る材料を出したのに、それを判断しないのは「間違いだ」ならわかりますが、「無責任」という言葉をはどういう意味か。深く考えてみたいです。

そもそも「憶測」の解釈も私が使ったものとはズレていますが、その私の責任を問う根拠は自分たちが「判断に足る材料を出した」からだ、というのはつまり自分たちの意見が判断に足るものだと語っておられるのはご自身たちなわけですよね。

「判断に足る材料を出した」とご自身方で言い切っている文章に違和感を覚えるのは私だけでしょうか。判断をするかしないかという、そもそも読み手に任せるべきものである判断をコントロールする意図を感じるのは私だけでしょうか。

あと最後に。反五輪の会の見解は下記です。いくつもの団体、さらにノーリミットソウルでのハラスメント発言の問題なども関連してます。複雑さというわたしの言葉の意味を理解されたい方はこちらをどうぞお読みください。

https://medium.com/@hangorin2020/2018年11月上映会以来起こっている件について-私たちの見解-9d383fceb57a